カリーパンの趣味備忘録

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「映画大好きポンポさん」感想ー命を捨てても曲げられない信念について。

映画大好きポンポさん、中川コロナシネマワールド シネマ12 10:20〜回にて鑑賞しました。

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公開日からかなり時間を置いての鑑賞となってしまいましたが、上映館でのラスト上映ということもあってか、かなりの着席率(ほぼ満席)で驚きました。当然パンフレットは売り切れで涙チョチョギレ。即通販で注文しました、というのも平尾監督のインタビューがどうしても読みたいんですよね。

今作は杉谷先生の「漫画原作」作品→平尾監督の「オリジナルアニメ」というアダプテーション構造だからこそ可能である、「平尾監督の自伝だったのではないか」というあくまで自己解釈のもと記事を展開していきたいと思います。無論、ネタバレ全開です。

 

目次

 

 

①演出について

 改めてご紹介、平尾隆之監督。同監督作品「空の境界 矛盾螺旋」は、空の境界シリーズの中でも特別好きな作品だったため鑑賞前から意識してましたが、想像以上に彼の特色が色濃く現れていて驚く。

まず彼のフィルムで面白いのが、流動的に流れている時間を、あたかも反復したり巻き戻したりしているように錯覚させにくる。

 

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このシークエンスは必見レベル。演出の凝り方が半端ではない

空の境界 矛盾螺旋」の序盤のシーンは特にその傾向が顕著で、ドアノブを回すというイメージカットから始まる日常、繰り返し一日の経過を告げるからくり時計…。時間が順行せず、場面反復が繰り返される演出は、奇しくもその時間の中に囚われてしまったかのような感覚に陥る。或いは物語が「転」を迎えると同時に、「一方その頃」と言わんばかりに別キャラクターの主観に切り替わる構成も、非常に実験的で面白い。

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左:矛盾螺旋、右:ポンポさん。平尾監督のフィルムはタイムラプスも象徴的

こういった演出の面影は、今作「映画大好きポンポさん」でも顕著だったと思います。ジーンが映画を編集する際に、バンク的に繰り返される劇中作「MEISTER」のカットは、如何にシーンを繋げるか葛藤するジーンの心情と密接にリンクしていたように思うし、キャラの主観が切り替わり時間軸も飛ぶ平尾監督特有の時系列シャッフルも、序盤のジーンとナタリーの邂逅シーンにて用いられていた。

 

また、撮影工程より編集のプロセスに重きを置いていた今作において、マッチカットの多さはやはり無視できない点だった。

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矛盾螺旋で一番好きな演出。

例によって「空の境界 矛盾螺旋」でもこの演出の使い方はかなり印象深かったし、今作ポンポさんでも、頻りにカットとカットの切断面でマッチカットやトランジションを用いていたのは、正にジーンの「編集」における拘りへのフォーカスに他ならないと思う。

 

②ポンポさんは何が「切除」されていたのか

上記で挙げた演出の特徴はあくまで平尾監督のフィルム面における特色、記号でしかない。作品の中に平尾監督自身が「居る」と感じてしまったのは、今作「映画大好きポンポさん」の別の側面にもある。それは正しく、「原作と今作の相違点」だ。

映画では、「MEISTER」の制作に行き詰ったジーン君が、ポンポの父であり名プロデューサー・ペーターゼンと言葉を交わすシーンがある。これは映画のオリジナルシーンの一つであるが、ここでペーターゼンは、ある言葉をジーンに投げかける。

「君の映画の中に君はいるかね」

ここでこの物語のテーマの一つがわかった。「自身の存在意義」である。そして面白いことに、このテーマは平尾監督の作品すべてに通ずると言える。

平尾監督はオリジナル作も何作か手掛けているが、主に知名度があるのはやはり「GOD EATER」や「空の境界 矛盾螺旋」になるだろう。しかし平尾監督は、原作を映像作品へアダプテーションすることに長けているというよりは、寧ろ個性的で「作家主義」なクリエイターであると言える。

特に平尾監督は、「空の境界 矛盾螺旋」でも、「自身の存在意義」に対して真摯的に向き合っていた。「偽物」であるということを突き付けられた臙条巴が、賢明に存在意義を模索する姿は、正に自身の投影でもあっただろう。

ここで第一項の演出の話に戻るが、映画大好きポンポさんを制作するにあたって、他の誰でもない「自分が監督する意味」というのを強く感じた演出意図、オリジナルシーンの数々であったように思う。ジーンがマーティン演じる劇中のキャラとリンクしていくストーリーテリングも、平尾監督と映画大好きポンポさんの関係性そのものをメタ的に表した構造であったのだ。しかしフィルムの中に投影されていたのは、何も監督だけではない

 

今作「映画大好きポンポさん」は、ハリウッドの闇の背景の一切が切除された「ニャリウッド」という虚構の中で、「幸福は創造の敵」など制作側独自のクリエイティブに対するかなり鋭利な思想が随所に配置されている。そういったクリエイティブに対する独自の姿勢を描いた今作の中で、もう一つ大きなテーマとしてあったのが「選択」、あるいは「切除」といっても差し支えないだろう。

まず最初に自分が引き付けられたジーンの台詞がある。

「売上とかスタッフの生活とかどうでもいい、編集が楽しい。」

 

ちょっとお話が逸れるのだが、自分はここで「チ。-地球の運動について-」という漫画を思い出した。この漫画も面白いもので、地球の公転・自転運動についての講釈垂れ流しな教科書漫画かと思いきや、そういったうんちく要素や、細かい舞台背景や地名などは寧ろ無駄なものとして「切除」されており、「学者の初期衝動や矜持」に一切の焦点が置かれている。そんな今作のワンシーン、女性の社会的立場が厳しい時代背景の中、論文もまともに公開できないでいる天文研究助手・ヨレンタが、天文に関する難問を解くために資料室に潜入する場面で、こんな台詞を言うのである。

「悪いこととかどうでもいいから、これの答えが知りたい。」

学者もクリエイターも根底は変わらない、作りたい・知りたいという初期衝動を行動力へと変換させている。しかしここで更に面白いのは、ジーン君の場合はこの作家の初期衝動」の描きが至極極端なのである。

まず一つ前提としてここはニャリウッド、現実(ハリウッド)のようにブラックな面は意図的に省かれており、映画の納期が迫りくることに対して強く言うものはいない。しかしジーンはあろうことか、自分の手によって自分自身を追い詰めていく。自発的に寝ずに編集をおこなう等の過度な行動を繰り返した結果、彼は倒れて病室へと送られてしまうのだ。クリエイティブに対する姿勢として、自己犠牲にすら肯定的な描写。

そしてもう一つ、何を言ってるのかと思われるかもしれないが、この物語はジーン及びその周囲の「恋愛」の一切が切除されている。

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なぜなら僕は、男女がプールサイド&花火の下で逢瀬を交わしたら、恋愛が始まるものだとラブコメに教えられてきた世代だからである。しかしあろうことかジーンは、ナタリーに見届けられながら編集する際も、彼女に(形式上)手を重ねられても微塵も狼狽しない。自分が言いたいのは、「映画作りが主題だから恋愛がない」というわけではない、お約束のようなカットを意図的に配置し、そのうえで「それは無駄である」として切り捨てているのだ。

自分はこの一連の「切除された」描写に驚くとともに、少々困惑を覚えた。それは紛れもなく自分自身が、時に逃げることの大切さ、人生の寄り道の大切さを、幾度となくアニメをはじめとした創作に教えられてきたからである。しかし自分はこの映画に、というよりジーンに自分を見つけてしまったのである。何故なら、ジーンが「映画」それだけを選択し突き進む姿は、今までも、そしてこれからも無限に連なっていくであろう「選択による後悔」を想起させ、のめり込んでしまった。或いはナタリー、そしてアニメオリジナルキャラであるアランだってそうだ。ジーンが自身の存在意義を模索し、何もかもを切り捨てる姿に突き動かされたのではないか。ポンポさん(≒作品という概念そのもの)のためだけに映画を撮るジーン(≒平尾監督)という究極のエゴイズムが、奇しくも劇中キャラや、何より観客である自分に刺さった。「特定の誰かのために作った作品が、それを必要としていた不特定多数の誰かに刺さる」、これこそがクリエイティブの本質だったのだと今一度思い出させてくれる作品だった。

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最後に

ということで映画大好きポンポさんの感想でした。ここからは(というかここからも)妄想話でしかありませんが、平尾監督って、今敏監督の「千年女優」の制作進行もされているんですよね。

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創作は形骸化せずその時代の人々の心に千年住み着く」、そんなメッセージを受け取った平尾監督が、今敏監督が遺した先鋭的で美しいアニメーションを受け継ぎ続ける。そこでまさに「空の境界 矛盾螺旋」「映画大好きポンポさん」のような原作付き作品問題、即ち「自身の存在意義」にぶち当たる。しかしそのフィルムのなかで、自身の身を削りぬいてでも躍動するキャラクターたちに、やはり「平尾監督自身」を感じてしまうのだ。自分にはこういった生き方はできないだろう、しかし保身ばかりではなく、「クリエイターになるか、死ぬか」という覚悟で何かを切る捨て続ける人たちにとって、ニャリウッドという最低限の夢をみせてくれる今作は、少しばかりのインセンティブの役割を果たした佳作であることは間違いないだろう。

だから自分は、同じく初期衝動に突き動かされる者たちの物語である「チ。-地球の運動について-」のキャッチコピーを借りて、この記事を締めようと思うのだ。

 

命を捨ててでも曲げられない信念はあるか?

 

世界を敵に回してでも貫きたい美学はあるか?

 

©奈須きのこ / 星海社講談社アニプレックス・ノーツ・ufotable
©2020 杉谷庄吾人間プラモ】/KADOKAWA/ 映画大好きポンポさん製作委員会