カリーパンの趣味備忘録

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「ヨルシカ - ブレーメン」MV感想 ― 物語の補完性について

先日YouTubeに投稿された、ヨルシカブレーメンMV。楽曲もさることながらアニメーションが非常に素晴らしかったので、こうして一記事として書き留めている次第です。

 

www.youtube.com

 

まず初めに、そもそもヨルシカは、全楽曲の作曲を担当しているn-buna氏がボカロPということもあり、非常にモダンな音運びが印象的なアーティストです。

また、現J-POPでは主流となりつつある「素性を明かさない」ネットシンガーのうちの1グループでもあります。しかし、そういった枠組みの中でもヨルシカは頭一つ抜けて特異的なアーティストだという印象があります。

同バンドが「花に亡霊」という楽曲を提供したアニメ映画作品「泣きたい私は猫をかぶる」の公式コメントのなかでは、下記のように語っていました。

ヨルシカは基本的にコンセプトが軸にある音楽を出しているバンドで、<中略>つまりは、作品という枠組みの中で支える音楽ではなく、枠組みの外で泳ぐ自由さを求められているのだと捉えました。
今回使っていただいた主題歌はヨルシカとしての作品性をそのままアウトプットしたものでもあり、この映画の創造力とぶつかり合って輝くような、独立した二作品が綺麗に調和を保っているような、そんな景色を作る音楽になっていればと、そう願っています。

 

引用元:映画「泣きたい私は猫をかぶる」公式サイト―COMMENT(映画「泣きたい私は猫をかぶる」公式サイト|Netflixにて全世界独占配信中! (nakineko-movie.com))

 

即ちヨルシカというアーティストの特異性とは、(タイアップにおいて)近年のトレンドである作品に迎合するミュージックではなく、「相対する物語とぶつかり合う」ことで作品の質を高めあうところにあるのです。

しかしこれはどちらが良い悪いということではなく、前者は結合することで一つの大きな物語へ昇華される、或いは後者は、「これは私の物語」「ここからはあなたの物語」というライン引きにより読み手の感情が相互作用することによって、結果的に二つで一つの物語として完成する。

ヨルシカの音楽の強さとは、そういった物語のコンセプトを確固たる枠組みで覆っている点にあると思うのです。

 

そういった点を踏まえて「ブレーメン」のミュージックビデオは、十二分に楽曲の魅力を引き出すものとなっていました。

 


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歩いたり、小走りになったり、スキップしてみたり、サイドステップしてみたり、小躍りなんかもしたり。また、時には立ち止まったり、後ろ歩きなんかもしてみたり。

そういった何気ない所作を、ただカメラでフォローする。意識的ではなく、寧ろ目的意識が希薄、或いは無意識的で、より自然体な足元の芝居付け。

それは、体重移動や不規則・リズミカルのバランスにおける身体性の描きの良さも相まって、一種の「動物性」というブレーメンのモチーフをなぞりつつ、さらに一歩その文学オマージュを逸脱して、ミュージックビデオ内における「彼ら」だけの新しい物語を確立させるものとなっています。

単純にフェチシズムを刺激させる良さも共存しているとは思いますが、やはりそれ以上に、自然な描きの良さからくる「生活感」が、彼らが歩む世界に肉付けし、MVの世界で生きているという実感をより強固なものにしてくれるのです。

 

また世界観の肉付けという点においては、美麗な背景美術によって示される、登場人物それぞれの舞台環境も大きく助力していると感じます。

公園や沿岸、学校の屋上や舗装された歩道。そういった数々の舞台背景を目の当たりにすることで、「彼はどんな生活を送っているんだろう」とか、「彼女はいつの時代を生きているんだろう」だとか、こちらが無意識的に彼らの世界を補完することで、くどいようですがMV内の世界観により没入していけるのです。

 

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そして一方通行な世界の垂れ流しでは終わらず、時折ドキッとさせられるカットが挟まれたり、下手から上手へ*1逆流するカメラフォローが挟まったりと、より意識や関心を引き出させるしかけも含まれています。

楽観や自堕落だけに留まらず、不穏さや悲哀、過去や彼岸との接続。そういったニュアンスが散りばめられた楽曲のメロディーやリリックを、つぶさに拾い上げる丁寧さも節々に感じられ、画としても音楽としても面白さを感じ取れました。

 

ここまで熱烈に記しておいてなんですが、自分はそこまでヨルシカというアーティストに精通しているわけではなく、YouTubeのコメント欄やSNSの感想で知ったことなのですが、どうやらこの足だけで示された登場人物たちは、これまでヨルシカが公開してきたミュージジックビデオのキャラクターが元になっているそうですね。

こういった記号化によるコアなファンたちの救済・あるいは地続きな世界観の示唆というのは確かにひとつの素敵な解釈だと思います。こんなファンサービスを知りもしなかった自分は、ふとYouTubeのオススメに出てきて本MVに魅了され、流れでヨルシカご本人のTwitterを見た。

その際に、このようなことを呟かれてました。

 

 

このツイートにも大した意味はないのだと思う。何ならこのブログの一記事にも大した意味はない。

なぜならこの楽曲もこの記事も、普遍的で溢れている人間の中の、たった一つのメモ・走り書きにすぎないから。

 

思えばこの「ブレーメン」は、ある意味今までの楽曲通り「ヨルシカ」という一個体だと思うのです。顔も素性も不明なキャラクターたちの物語を、ただの足元芝居とささやかなリリックだけで綴っていく。

すると必然、MVのキャラクターたちにヨルシカを照らし合わせてしまうし、ただやっぱり距離を置いているようにも思う。

 

まあささやかなしかけについては後で知ったことではあるのですが、ともかく記号性によって「過去作で~」などの考察で雁字搦めに考えすぎてしまうのは、いささかもったいない気がするのです。

寧ろこのミュージックビデオで躍動するキャラクターたちは、喜怒哀楽全てがどこまでも自然体で、そんな彼らを見る我々は、ただボーっと物語を想起する。

上半身が映らないことによって担保されている匿名性は、解釈の多元性を生み、見る人それぞれの頭によって様々な物語に補完される。

読み手の存在によって始めて完成されるのが「物語」であるということを今一度思い起こさせてくれるMVでした。

 

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このミュージックビデオのラストカットは、ブレーメンという物語の〆ではあれど、新しい問題提起だと思います。

このずり落ちてしまった青い絹から、どんな物語が始まるのだろう。或いは何も始まらないのだろうか。

それは、ヨルシカのきまぐれなリリックが再演するまでわからない。

 

 

*1:左から右。上のGif参照