カリーパンの趣味備忘録

視覚から得る情報の雄弁さは計り知れない。

自分が思う創作との向き合い方について。(自己紹介)

 皆さんこんにちは!カリーパンと申す者です。

 普段はTwitter(@animekaripan)にて主にアニメ(+α)の感想を簡潔に呟いておりますが、まさかこんな長文を書きたい、と思う日が来ようとは(笑)ブログ開設の動機等も含め、最初の記事は軽く自己紹介となります。拙い文章ではありますが、どうか肩の力を抜いてテキトーに読んでってください。

 アニメを軸に展開していきますが、別趣味もチョロっと入るかもしれません、よしなに。

 

1.アニメの沼にハマったきっかけ

 幼少期から、テレ東系列を始めとした児童向けアニメは人並みに見ておりました。ポケモンドラえもんイナズマイレブンクレヨンしんちゃん…etc。

 決定的にアニメに対する意識が強まったのは、放送当時中学生、友人に勧められて「進撃の巨人」、それも“5話”を目の当たりにした時です。

 

shingeki.tv


 というのも、勧められて「よし、見よう!」と思い立って録画したのがたまたま5話だったんですよ(笑)。視聴した方は分かると思いますが、主人公が○○られたりとかなり衝撃的な回なんですよね。「世の中にはこんなアニメがあるのか…」と、齢十二にしてとにかくいろんな事を痛感させられたものです。

 ともかく当時「進撃の巨人」に親もハマりだし、他に面白い深夜帯のアニメはないものか、と番組表をガチャガチャしていたところ、「これ面白そうじゃない?」と親の勧めで一緒の見始めた、丁度進撃の次クールに放送していた「銀の匙」。この二作から、徐々に深夜アニメの沼にハマっていった次第です。


『銀の匙 Silver Spoon』第1弾トレーラー

2.感想を書き始めたきっかけ

強いて具体的に作品を挙げるならば、「STEINS;GATE」、「ダンガンロンパシリーズ(ゲーム)」が皮切りですね。

 

ダンガンロンパ1・2 Reload - PSVita

ダンガンロンパ1・2 Reload - PSVita

  • 発売日: 2013/10/10
  • メディア: Video Game
 


 中三の頃にこの二作に触れ、「この作品を好きな人と交流したい!」と思い立ち、始めたSNSが「Google+」。主に高校時代は男臭い青春の傍ら、休日に時たまアニメ映画を見ては、Google+に拙い感想を書き連ねておりました。ちなみにこの時期に触れた作品は、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!大人帝国」や「イヴの時間」、「AKIRA」に「パーフェクトブルー」などが強く印象に残っています。

 しかし2018年末頃に、Google+のサービス終了が決定。さてどうしたものかというところ、SNS内にて「Twitterアカウントを作った」と移動を始める人がチョコチョコ現れ、自分も流れ的にアニメ用Twitterアカウントを作った次第です。

 結局経過の説明みたいになっちゃったけど、要点を抜き出すと、感想クラスタSNSに興味を持ったきっかけは「サブカルチャー好き同士、意見交流したい」ってこと。


3.主観的なアニメ感想(考察)における意識

 ここからが一番喋りたかったこと。

 感想を書く・読む上において、「正解はない」ということを大前提においています。だから自分のスタイルで自由に感想を書きたいし、そういう感想を読みたい。もちろん、誤った解釈や誤字は指摘し合える程度の空気感は必要だと思うけど。

 簡潔に感じたことを述べる人、考察を主軸とする人、批評が主軸の人、絵的な魅力・演出やキャラクターの心情に寄り添った感想を書く人、社会風刺と物語構造の縦軸関係に視点を置く人…etc。様々な着眼点があるからこそ、作品の色んな側面が可視化され、気づけることが増えていく。SNSなどを通した視聴者交流の場は、こと創作を楽しむ上において欠かせない一要素だと考えます。

 日々Twitterのフォロイーさんや目を通したブログ等に触発されて、それが一番のモチベーションになっております。自分の感想は、同じ作品でも各回ごとに全く違うテイストだったり、視点があやふやだったりすることが多いので、一貫した着眼点で感想を書ける方が羨ましかったり。

 

4.好きなアニメ

挙げだすとキリがないので、パッと思いつく作品を何作か列挙(あまり絞れなかった😢)

何作かピックアップして、簡単な雑感をば。

  • 進撃の巨人

     自分にとって、深夜アニメへの切り口を開いた決定的な作品。初見当時の自分には未知と魅力しかない作品だったなと。

     「鳥籠の中(ディストピア)」や、食物連鎖の頂点が塗り替わった世界での捕食関係は、後の作品(約束のネバーランド、東京喰種etc.)に多大な影響を与えたと思う。ここを起点にハードなバトル作風が増えたイメージ。アニメ、漫画史に残る名作ですね。

  • STEINS;GATE


    TVアニメ「STEINS;GATE」プロモーションムービーC79

     この作品も、自分の創作における意識の大半を構築した一作。今までで一番ハマった作品、と聞かれたら今作を挙げますね。
     巧みなストーリーテリングにキャラクター毎の機敏な心情の動き、何より厨二臭さすら感じるビジュアルに感銘を受けたものです。「ノベルゲー」という、自分にとっての新たな切り口を開いてくれたのもこの作品。

  • 彼方のアストラ

     最近の作品からも一つ、ということで。

     ここ最近の中で、一番「次回が楽しみ」かつ「皆さんの感想を読むのが楽しい」作品でした。叙述トリックの効いた、本格的なSF作風にはかなり感動したものです。また、「親元に帰ろうとしない子供たち」「放り出される子供たち」という構図は、どこか社会風刺を彷彿とさせるもので印象的だったのをよく覚えています 。

5.おまけ

 〇好きなゲーム作品

 ストーリー性重視の作品を列挙。

・ニューダンガンロンパ2 ・STEINS;GATE  ・CHAOS;CHILD ・沙耶の唄

Ever17 ・ポケモン不思議のダンジョン 空の探検隊 ・Undertale

 

 〇好きな漫画作品

 荒川弘先生、松井優征先生辺りが好きかも。

銀の匙 ・鋼の錬金術師 ・ぼくらの ・なるたる ・魔人探偵脳噛ネウロ

FAIRY TAIL ・最終兵器彼女 ・少女不十分 ・暗殺教室 ・デスノート

おやすみプンプン ・All You Need Is Kill

 

6.〆

 最後となりましたが、このブログはかなり不定期な更新になると思います。140字以上の思いを伝えたいとき、ネタバレ配慮で感想を書きづらい映画やノベルゲームのこと、適当な企画...etc

 改めてよろしくお願いします。拙い文章になるとは思いますが、どうかご贔屓にしていただければなと。ではまた次回👋

2022年『ヘブンバーンズレッド』イベントストーリー3選

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ヘブバン、初日…は無限にリセマラしてたので実質リリース2日目から勢ですが、毎日欠かさずログインし、現在公開済みのストーリーも全て読んでいます。

ということで、『ヘブンバーンズレッド』で(ほぼ)月1回ペースで公開されている、イベントストーリーで特に良かったものを3つ選出し、感想としてここに残しておこうかなと思います。

ヘブバンは配信当初から、ビジュアルアーツの通称「key」のメインライターとして名を馳せる麻枝准氏がディレクションをするということで注目を集めていましたが、流石に月1のシナリオはビジュアルアーツWFSの社内ライターがローテーションで書くという方針だそうです。麻枝さんが得意とする「日常コメディ」と「切なさ」は絶対条件であり、下世話な言い方ではありますがやはりシナリオによって当たり外れはあるのかなという感じです。

また、良いイベントストーリーに出会った時も、「果たしてこれはだーまえなのか?別ライターなのか?」という邪推が生まれてしまい、なんとも複雑な気持ちではあります。

 

そういった内情も踏まえて、素直に「とても良かった」と思えたイベントストーリーを3つ、感想という形でここに残しておこうと思います。特に順位は付けていないので、配信開始順です。

 

 

Requiem for the Blue


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基本的にメインストーリーは31A(茅森)の主観で進むが、本イベントは2章の話を31Bの水瀬いちご視点で紡がれた話。

自分が何より感心した点は、水瀬いちごの過去を掘り下げる上で描かれた、彼女のディス・コミュニケーション性の解像度の高さ。夜中にひっそり手を繋いじゃうくらい蒼井の事を思っているのに、反発することでしか交われない彼女。「好きな人が好きなものが嫌い」というのも鉄板ですが、いちごが茅森に強く当たる点も非常に合点がいったし、蒼井に酷いことをしつつもストーキングするというパートは、思わず笑ってしまいました。

本ストーリーは「遅すぎた愛情」として幕を閉じ、公開当初は「いや、自業自得やん」という感想もチラホラ見かけましたが、私的には、いちごの感情解像度の高さ、或いは百合としてもかなりの完成度だったと思う。読後感としても感動というより、ただひたすら感心したストーリーでした。

 

進めちびっ子大作戦U140


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イベントストーリーでは初となる、他チーム混合編成の話。

タイトル通り身長アンダー140cmのメンバーで展開される話でしたが、そういった身体性が活かされた、コミカルな雰囲気のコメディ調がとにかく良い。少々毒も含んだ掛け合いもあったりと、ライターは不明ですがだーまえ調も節々に感じるところがありましたね。今後本編を読み解く上で重要になってくるであろう「キラクター年齢を公開していない」という要素も上手くシナリオに活きており、丸山奏多という丁度「子供と大人の狭間」に揺れるキャラクターに死を理解させるストーリーテリングも唸りました*1

またエピローグではありますが、U140のメンバーが帰還した際に同チームの保護者メンバー*2が駆けつける場面も、ほっこりして良かったです。彼女らがあの世界で生きている、という確固たる実感を持たせる後味として効いていました。

 

セラフ剣刀武術祭


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先月公開の新しめシナリオではありますが、これまた好きなテイストだったのでチョイス。

まず初めに本作ヘブバンは、だーまえ氏脚本アニメ「Angel Beats!」ぶりに、「」を強めに扱った作品だと思います。上に挙げたU140でもそうですが、世界に侵入者(キャンサー)が蔓延るという限りなく死に漸近した世界で、死あるいは「死より辛いこと」を描こうという作品だと思う。その中でもこのストーリーは、暗殺稼業が主人公というこれまた別の角度から斬り込んだ話として面白かったです。元暗殺稼業の夏目祈がU140で一回り成長した丸山に相談をしに行くという一連のシークエンスも、イベントストーリーというサブシナリオが、しっかり正史として彼女らの人生に刻まれているということを切実に表して切れていたのも嬉しかった。

そして何より、曲がイイ!(下に貼ったヤツ)

本シナリオのクライマックスで流れる熱さ重視の一曲は、本ゲームの場面の中でもトップクラスにカチッとハマっていた。

 

Muramasa Blade!

Muramasa Blade!

Amazon

 

以上、『ヘブンバーンズレッド』イベントストーリー3選感想でした。

死に限りなく漸近した世界、「Girls Dead Monster」を彷彿とさせるShe is Legendなど、テイストは「Angel Beats!」に近いのかなー、という感覚でプレイしております。因みに推しは大島一千子神崎アーデルハイド。彼女らの活躍に期待しつつ、来年も素敵なシナリオに出会えますように。

 

 

*1:これが豊後だとシナリオの納得度が低く、他メンバーはほぼ達観済み。本当に、丸山というチョイスが◎

*2:山脇、一千子等。諸説あり

不在の「過去」と、出会いの「今」と。――『THE FIRST SLAM DUNK』感想

『THE FIRST SLAM DUNK』、原作未読ながらに鑑賞してきました。個人的には、大傑作でございましたよ!最高の映画体験でした。

以下、ネタバレあり感想です。

ミッドランドスクエア シネマにて鑑賞



『THE FIRST SLAM DUNK

原作・脚本・監督

井上雄彦

 

アニメーション制作

東映アニメーション

ダンデライオンアニメーション

目次

 

事前評価を覆す、観戦型映画としてのポテンシャルの高さ


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やはり一番記憶に新しいのが、予告編より明らかになった、キャスティングの大幅変更とCGアニメーションへの大バッシング。原作未読かつ気になった映画はなるべく観ている程度の自分ならまだしも、原作を愛する方たちからしたらとんでもない爆弾であっただろう。

しかし公開直後、そういったネガティブな事前評価を覆すほど絶賛を浴びる作品力に、より期待が高まった。

そしていざ、鑑賞。

旧アニメ版では時代の都合上、間の取り方が枷となっていたであろうことは想像に難くないが、モーションキャプチャーを駆使した3DCGアニメーションの技術によって、その抑制から完全に解き放つことに成功していた。桜木の(普通だったら)異質な立ち位置と圧倒的なリバウンドの高さが、素人さ、また確かに持ち合わせている才能という点で非常に分かりやすく表現されており、自分のような初見の人でもキャラクターに説得力がある。また等身のリアリティによって、絶望的なまでの山王のガードの堅さと、宮城の小柄さがしっかり伝わる。3次元的なフィールドの様相が、アングル・画を通じて映画という平面フィールドから確実に伝わってくるのだ。

また、そこに立体を付与する役割としての音響面も、大したものだ。体育館という属性を最大限に引き出したボール音や歓声の反響、シューズの擦れる音は、まさに今作の「観戦型映画」としての臨場感を高めている。

と、ビジュアル的には殆どの人が納得する完成度であっただろうが、今作はそういった優れた空間性とは裏腹に、かなり特殊な構成となっている。

 

「過去を回想する」、ということ。あるいは、その揺れ動き

ここで少しあらすじを振り返ってみる。今作は、原作でも最高傑作と名高い「湘北VS山王戦」を描きながら、湘北のメンバーの一人「宮城リョータ」に焦点を当てつつ、物語は展開される。

宮城リョータには、「宮城ソータ」というこれまたバスケの才を持つ兄がおり、その兄を海難事故で亡くしてしまっているという過去を持つ。

宮城ソータは、言わば漫画版(或いは旧アニメ版)のスラムダンクを表しているとも言える。ファンの中で金字塔として打ち立てられる「原作版スラムダンク」は、絶対に越えられない壁として君臨しており、リョータの周りの環境が言うように、彼は決してソータの代わりにはなれない。

井上 確かにそうですね。繰り返せないのかもしれないです。性格なのか、なぞるというのが苦手ですね。

<中略>

まあ、最初は自分がやるとは思っていなかったので。ただ、そういうお話はよくいただくんですけど、あまりやりたくはなかったですね、最初は。

引用元:COURT SIDE | 映画『THE FIRST SLAM DUNK』 (slamdunk-movie-courtside.jp)

「THE FIRST SLAM DUNK」は、湘北VS山王戦を熱く描きつつも、時折、迷い込むように宮城リョータの回想にフラッシュバックする。それが、感情の流れを阻害してしまい映画の様式美として正しくないとしてもだ。

なぜなら井上監督もまた、リョータと同じく、決して「代わりにはなり得ないもの」に挑む挑戦者だからだ。ソータが山王に入るのではなく打倒する、と宣言していたように、リョータと監督もまた、なぞるのではなく正面からの衝突を選択する。

新機軸の湘北VS山王戦という「現在」を描きながらも、監督自らの抱え込む不安を回想という「過去」に乗せて描く。その二つの相克はフィルムの中でずっと揺れ動きながら、井上監督の「描きたいもの、あるいは葛藤」として二面性を持ち続けるのだ。

 

不在の「過去」と、出会いの「今」と。

未読者であるが故に、やはり鑑賞前に一番気にしていた点は、「原作未読でも楽しめるのか?」というところにある。ネタバレを踏まないよう細心の注意を払いながらレビューを流し見ていると、原作既読者の見解としては「(特に未読者には)推奨しない」という意見が多く見受けられたが、どうやら未読者の評判は高めなように思えた。

監督はインタビューの中で、こうも綴っている。

井上 喜んでもらいたいと思ったと話しましたが、喜んでもらうってどういうことかと。いろんな方法があったと思うんです。自分が思った方法は“出会ってもらう”という。例えば、面白いマンガも一度読み終えたら“初めて読む経験”はもうできないじゃないですか。<中略>なんかそういうのを、『SLAM DUNK』を随分前に読んだ人が“初めて観る”みたいなことができたら、それがいいんじゃないかなって。喜んでもらう形のひとつとして。なので、出会ってもらう。こういう『SLAM DUNK』もあるのかと、初めて出会うみたいな出会い方をしてもらえたら嬉しいなと思いますね。そして、初めて観る人はもちろん、初めてだし。

引用元:COURT SIDE | 映画『THE FIRST SLAM DUNK』 (slamdunk-movie-courtside.jp)

『THE FIRST SLAM DUNKの“FIRST”、自分は原点ではなくファーストインプレッションの意として解釈したが、つまりは「すべての観客に、平等に新しい出会いを届ける」作品を目指したのだと思う。

ともすれば先ほど挙げたレビューにも合点がいく。

原作既読者の出会いは正しく原作であり、今作でスポイルされていた名場面があってはじめて「完成する」。だからこそ、スラムダンクを読んでない層の出会いも原作であってほしい、という一種の配慮から生まれた感想であろう。しかし、やはり原作未読者からすれば、映画からハマって原作を読むとしても、出会いは紛れもなくこの『THE FIRST SLAM DUNKなのだ。

確かに僕には、スラムダンクという形での輝かしい過去は存在しない。言わば、スラムダンクという想い出は不在だ。でも、『THE FIRST SLAM DUNKを介してスラムダンクと出会ったという鮮烈な今がある。それはまた近い将来、自分の中の大切な想い出の一つとして残っていくんだろうな、という確かな予感がある。今はただ、それだけでいい。

 

最後に

以上、スラムダンク映画の感想でした。結局、原作未読者からしたら、これがいい形での「Re:Birth」だったか判断する権利もないし、「正しい映画」として評価すると厳しい面もありましたが、減点方式で観るのはあまりに勿体ない「体感型フィルム」でございましたよ。

今作中にもある桜木花道のセリフ「オレは今なんだよ!」、この一言で瞬く間に、筆舌に尽くしがたい衝動に駆られました。学生部活のバスケットボールの一試合、長大な人生の尺度から俯瞰したらほんのコンマのイベント。その刹那、普段交わることのない人間たちの感情ベクトルが、とんでもない密度で一瞬、交差する。二時間という短い間でしたが、この密度でしか表せない強烈な「何か」に出会えた作品でした。近いうちに、原作も読みたいですね。

 

洗練されたボール・シューズ音、反響する歓声、作品の中に彼らは「生きていた」と言える確かな存在感――

 

この日2時間、俺は確かにあのコートで彼らの試合を見届けていた。

 

そう、断言できる。

 


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解釈のうえで、闇鍋はにわ氏の感想記事も非常に参考になりましたので、引用させていただきます。

 

 

© I.T.PLANNING,INC.  © 2022 THE FIRST SLAM DUNK Film Partners

「ヨルシカ - ブレーメン」MV感想 ― 物語の補完性について

先日YouTubeに投稿された、ヨルシカブレーメンMV。楽曲もさることながらアニメーションが非常に素晴らしかったので、こうして一記事として書き留めている次第です。

 

www.youtube.com

 

まず初めに、そもそもヨルシカは、全楽曲の作曲を担当しているn-buna氏がボカロPということもあり、非常にモダンな音運びが印象的なアーティストです。

また、現J-POPでは主流となりつつある「素性を明かさない」ネットシンガーのうちの1グループでもあります。しかし、そういった枠組みの中でもヨルシカは頭一つ抜けて特異的なアーティストだという印象があります。

同バンドが「花に亡霊」という楽曲を提供したアニメ映画作品「泣きたい私は猫をかぶる」の公式コメントのなかでは、下記のように語っていました。

ヨルシカは基本的にコンセプトが軸にある音楽を出しているバンドで、<中略>つまりは、作品という枠組みの中で支える音楽ではなく、枠組みの外で泳ぐ自由さを求められているのだと捉えました。
今回使っていただいた主題歌はヨルシカとしての作品性をそのままアウトプットしたものでもあり、この映画の創造力とぶつかり合って輝くような、独立した二作品が綺麗に調和を保っているような、そんな景色を作る音楽になっていればと、そう願っています。

 

引用元:映画「泣きたい私は猫をかぶる」公式サイト―COMMENT(映画「泣きたい私は猫をかぶる」公式サイト|Netflixにて全世界独占配信中! (nakineko-movie.com))

 

即ちヨルシカというアーティストの特異性とは、(タイアップにおいて)近年のトレンドである作品に迎合するミュージックではなく、「相対する物語とぶつかり合う」ことで作品の質を高めあうところにあるのです。

しかしこれはどちらが良い悪いということではなく、前者は結合することで一つの大きな物語へ昇華される、或いは後者は、「これは私の物語」「ここからはあなたの物語」というライン引きにより読み手の感情が相互作用することによって、結果的に二つで一つの物語として完成する。

ヨルシカの音楽の強さとは、そういった物語のコンセプトを確固たる枠組みで覆っている点にあると思うのです。

 

そういった点を踏まえて「ブレーメン」のミュージックビデオは、十二分に楽曲の魅力を引き出すものとなっていました。

 


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歩いたり、小走りになったり、スキップしてみたり、サイドステップしてみたり、小躍りなんかもしたり。また、時には立ち止まったり、後ろ歩きなんかもしてみたり。

そういった何気ない所作を、ただカメラでフォローする。意識的ではなく、寧ろ目的意識が希薄、或いは無意識的で、より自然体な足元の芝居付け。

それは、体重移動や不規則・リズミカルのバランスにおける身体性の描きの良さも相まって、一種の「動物性」というブレーメンのモチーフをなぞりつつ、さらに一歩その文学オマージュを逸脱して、ミュージックビデオ内における「彼ら」だけの新しい物語を確立させるものとなっています。

単純にフェチシズムを刺激させる良さも共存しているとは思いますが、やはりそれ以上に、自然な描きの良さからくる「生活感」が、彼らが歩む世界に肉付けし、MVの世界で生きているという実感をより強固なものにしてくれるのです。

 

また世界観の肉付けという点においては、美麗な背景美術によって示される、登場人物それぞれの舞台環境も大きく助力していると感じます。

公園や沿岸、学校の屋上や舗装された歩道。そういった数々の舞台背景を目の当たりにすることで、「彼はどんな生活を送っているんだろう」とか、「彼女はいつの時代を生きているんだろう」だとか、こちらが無意識的に彼らの世界を補完することで、くどいようですがMV内の世界観により没入していけるのです。

 

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そして一方通行な世界の垂れ流しでは終わらず、時折ドキッとさせられるカットが挟まれたり、下手から上手へ*1逆流するカメラフォローが挟まったりと、より意識や関心を引き出させるしかけも含まれています。

楽観や自堕落だけに留まらず、不穏さや悲哀、過去や彼岸との接続。そういったニュアンスが散りばめられた楽曲のメロディーやリリックを、つぶさに拾い上げる丁寧さも節々に感じられ、画としても音楽としても面白さを感じ取れました。

 

ここまで熱烈に記しておいてなんですが、自分はそこまでヨルシカというアーティストに精通しているわけではなく、YouTubeのコメント欄やSNSの感想で知ったことなのですが、どうやらこの足だけで示された登場人物たちは、これまでヨルシカが公開してきたミュージジックビデオのキャラクターが元になっているそうですね。

こういった記号化によるコアなファンたちの救済・あるいは地続きな世界観の示唆というのは確かにひとつの素敵な解釈だと思います。こんなファンサービスを知りもしなかった自分は、ふとYouTubeのオススメに出てきて本MVに魅了され、流れでヨルシカご本人のTwitterを見た。

その際に、このようなことを呟かれてました。

 

 

このツイートにも大した意味はないのだと思う。何ならこのブログの一記事にも大した意味はない。

なぜならこの楽曲もこの記事も、普遍的で溢れている人間の中の、たった一つのメモ・走り書きにすぎないから。

 

思えばこの「ブレーメン」は、ある意味今までの楽曲通り「ヨルシカ」という一個体だと思うのです。顔も素性も不明なキャラクターたちの物語を、ただの足元芝居とささやかなリリックだけで綴っていく。

すると必然、MVのキャラクターたちにヨルシカを照らし合わせてしまうし、ただやっぱり距離を置いているようにも思う。

 

まあささやかなしかけについては後で知ったことではあるのですが、ともかく記号性によって「過去作で~」などの考察で雁字搦めに考えすぎてしまうのは、いささかもったいない気がするのです。

寧ろこのミュージックビデオで躍動するキャラクターたちは、喜怒哀楽全てがどこまでも自然体で、そんな彼らを見る我々は、ただボーっと物語を想起する。

上半身が映らないことによって担保されている匿名性は、解釈の多元性を生み、見る人それぞれの頭によって様々な物語に補完される。

読み手の存在によって始めて完成されるのが「物語」であるということを今一度思い起こさせてくれるMVでした。

 

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このミュージックビデオのラストカットは、ブレーメンという物語の〆ではあれど、新しい問題提起だと思います。

このずり落ちてしまった青い絹から、どんな物語が始まるのだろう。或いは何も始まらないのだろうか。

それは、ヨルシカのきまぐれなリリックが再演するまでわからない。

 

 

*1:左から右。上のGif参照

「映画大好きポンポさん」感想ー命を捨てても曲げられない信念について。

映画大好きポンポさん、中川コロナシネマワールド シネマ12 10:20〜回にて鑑賞しました。

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公開日からかなり時間を置いての鑑賞となってしまいましたが、上映館でのラスト上映ということもあってか、かなりの着席率(ほぼ満席)で驚きました。当然パンフレットは売り切れで涙チョチョギレ。即通販で注文しました、というのも平尾監督のインタビューがどうしても読みたいんですよね。

今作は杉谷先生の「漫画原作」作品→平尾監督の「オリジナルアニメ」というアダプテーション構造だからこそ可能である、「平尾監督の自伝だったのではないか」というあくまで自己解釈のもと記事を展開していきたいと思います。無論、ネタバレ全開です。

 

目次

 

 

①演出について

 改めてご紹介、平尾隆之監督。同監督作品「空の境界 矛盾螺旋」は、空の境界シリーズの中でも特別好きな作品だったため鑑賞前から意識してましたが、想像以上に彼の特色が色濃く現れていて驚く。

まず彼のフィルムで面白いのが、流動的に流れている時間を、あたかも反復したり巻き戻したりしているように錯覚させにくる。

 

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このシークエンスは必見レベル。演出の凝り方が半端ではない

空の境界 矛盾螺旋」の序盤のシーンは特にその傾向が顕著で、ドアノブを回すというイメージカットから始まる日常、繰り返し一日の経過を告げるからくり時計…。時間が順行せず、場面反復が繰り返される演出は、奇しくもその時間の中に囚われてしまったかのような感覚に陥る。或いは物語が「転」を迎えると同時に、「一方その頃」と言わんばかりに別キャラクターの主観に切り替わる構成も、非常に実験的で面白い。

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左:矛盾螺旋、右:ポンポさん。平尾監督のフィルムはタイムラプスも象徴的

こういった演出の面影は、今作「映画大好きポンポさん」でも顕著だったと思います。ジーンが映画を編集する際に、バンク的に繰り返される劇中作「MEISTER」のカットは、如何にシーンを繋げるか葛藤するジーンの心情と密接にリンクしていたように思うし、キャラの主観が切り替わり時間軸も飛ぶ平尾監督特有の時系列シャッフルも、序盤のジーンとナタリーの邂逅シーンにて用いられていた。

 

また、撮影工程より編集のプロセスに重きを置いていた今作において、マッチカットの多さはやはり無視できない点だった。

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矛盾螺旋で一番好きな演出。

例によって「空の境界 矛盾螺旋」でもこの演出の使い方はかなり印象深かったし、今作ポンポさんでも、頻りにカットとカットの切断面でマッチカットやトランジションを用いていたのは、正にジーンの「編集」における拘りへのフォーカスに他ならないと思う。

 

②ポンポさんは何が「切除」されていたのか

上記で挙げた演出の特徴はあくまで平尾監督のフィルム面における特色、記号でしかない。作品の中に平尾監督自身が「居る」と感じてしまったのは、今作「映画大好きポンポさん」の別の側面にもある。それは正しく、「原作と今作の相違点」だ。

映画では、「MEISTER」の制作に行き詰ったジーン君が、ポンポの父であり名プロデューサー・ペーターゼンと言葉を交わすシーンがある。これは映画のオリジナルシーンの一つであるが、ここでペーターゼンは、ある言葉をジーンに投げかける。

「君の映画の中に君はいるかね」

ここでこの物語のテーマの一つがわかった。「自身の存在意義」である。そして面白いことに、このテーマは平尾監督の作品すべてに通ずると言える。

平尾監督はオリジナル作も何作か手掛けているが、主に知名度があるのはやはり「GOD EATER」や「空の境界 矛盾螺旋」になるだろう。しかし平尾監督は、原作を映像作品へアダプテーションすることに長けているというよりは、寧ろ個性的で「作家主義」なクリエイターであると言える。

特に平尾監督は、「空の境界 矛盾螺旋」でも、「自身の存在意義」に対して真摯的に向き合っていた。「偽物」であるということを突き付けられた臙条巴が、賢明に存在意義を模索する姿は、正に自身の投影でもあっただろう。

ここで第一項の演出の話に戻るが、映画大好きポンポさんを制作するにあたって、他の誰でもない「自分が監督する意味」というのを強く感じた演出意図、オリジナルシーンの数々であったように思う。ジーンがマーティン演じる劇中のキャラとリンクしていくストーリーテリングも、平尾監督と映画大好きポンポさんの関係性そのものをメタ的に表した構造であったのだ。しかしフィルムの中に投影されていたのは、何も監督だけではない

 

今作「映画大好きポンポさん」は、ハリウッドの闇の背景の一切が切除された「ニャリウッド」という虚構の中で、「幸福は創造の敵」など制作側独自のクリエイティブに対するかなり鋭利な思想が随所に配置されている。そういったクリエイティブに対する独自の姿勢を描いた今作の中で、もう一つ大きなテーマとしてあったのが「選択」、あるいは「切除」といっても差し支えないだろう。

まず最初に自分が引き付けられたジーンの台詞がある。

「売上とかスタッフの生活とかどうでもいい、編集が楽しい。」

 

ちょっとお話が逸れるのだが、自分はここで「チ。-地球の運動について-」という漫画を思い出した。この漫画も面白いもので、地球の公転・自転運動についての講釈垂れ流しな教科書漫画かと思いきや、そういったうんちく要素や、細かい舞台背景や地名などは寧ろ無駄なものとして「切除」されており、「学者の初期衝動や矜持」に一切の焦点が置かれている。そんな今作のワンシーン、女性の社会的立場が厳しい時代背景の中、論文もまともに公開できないでいる天文研究助手・ヨレンタが、天文に関する難問を解くために資料室に潜入する場面で、こんな台詞を言うのである。

「悪いこととかどうでもいいから、これの答えが知りたい。」

学者もクリエイターも根底は変わらない、作りたい・知りたいという初期衝動を行動力へと変換させている。しかしここで更に面白いのは、ジーン君の場合はこの作家の初期衝動」の描きが至極極端なのである。

まず一つ前提としてここはニャリウッド、現実(ハリウッド)のようにブラックな面は意図的に省かれており、映画の納期が迫りくることに対して強く言うものはいない。しかしジーンはあろうことか、自分の手によって自分自身を追い詰めていく。自発的に寝ずに編集をおこなう等の過度な行動を繰り返した結果、彼は倒れて病室へと送られてしまうのだ。クリエイティブに対する姿勢として、自己犠牲にすら肯定的な描写。

そしてもう一つ、何を言ってるのかと思われるかもしれないが、この物語はジーン及びその周囲の「恋愛」の一切が切除されている。

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なぜなら僕は、男女がプールサイド&花火の下で逢瀬を交わしたら、恋愛が始まるものだとラブコメに教えられてきた世代だからである。しかしあろうことかジーンは、ナタリーに見届けられながら編集する際も、彼女に(形式上)手を重ねられても微塵も狼狽しない。自分が言いたいのは、「映画作りが主題だから恋愛がない」というわけではない、お約束のようなカットを意図的に配置し、そのうえで「それは無駄である」として切り捨てているのだ。

自分はこの一連の「切除された」描写に驚くとともに、少々困惑を覚えた。それは紛れもなく自分自身が、時に逃げることの大切さ、人生の寄り道の大切さを、幾度となくアニメをはじめとした創作に教えられてきたからである。しかし自分はこの映画に、というよりジーンに自分を見つけてしまったのである。何故なら、ジーンが「映画」それだけを選択し突き進む姿は、今までも、そしてこれからも無限に連なっていくであろう「選択による後悔」を想起させ、のめり込んでしまった。或いはナタリー、そしてアニメオリジナルキャラであるアランだってそうだ。ジーンが自身の存在意義を模索し、何もかもを切り捨てる姿に突き動かされたのではないか。ポンポさん(≒作品という概念そのもの)のためだけに映画を撮るジーン(≒平尾監督)という究極のエゴイズムが、奇しくも劇中キャラや、何より観客である自分に刺さった。「特定の誰かのために作った作品が、それを必要としていた不特定多数の誰かに刺さる」、これこそがクリエイティブの本質だったのだと今一度思い出させてくれる作品だった。

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最後に

ということで映画大好きポンポさんの感想でした。ここからは(というかここからも)妄想話でしかありませんが、平尾監督って、今敏監督の「千年女優」の制作進行もされているんですよね。

千年女優 [Blu-ray]

創作は形骸化せずその時代の人々の心に千年住み着く」、そんなメッセージを受け取った平尾監督が、今敏監督が遺した先鋭的で美しいアニメーションを受け継ぎ続ける。そこでまさに「空の境界 矛盾螺旋」「映画大好きポンポさん」のような原作付き作品問題、即ち「自身の存在意義」にぶち当たる。しかしそのフィルムのなかで、自身の身を削りぬいてでも躍動するキャラクターたちに、やはり「平尾監督自身」を感じてしまうのだ。自分にはこういった生き方はできないだろう、しかし保身ばかりではなく、「クリエイターになるか、死ぬか」という覚悟で何かを切る捨て続ける人たちにとって、ニャリウッドという最低限の夢をみせてくれる今作は、少しばかりのインセンティブの役割を果たした佳作であることは間違いないだろう。

だから自分は、同じく初期衝動に突き動かされる者たちの物語である「チ。-地球の運動について-」のキャッチコピーを借りて、この記事を締めようと思うのだ。

 

命を捨ててでも曲げられない信念はあるか?

 

世界を敵に回してでも貫きたい美学はあるか?

 

©奈須きのこ / 星海社講談社アニプレックス・ノーツ・ufotable
©2020 杉谷庄吾人間プラモ】/KADOKAWA/ 映画大好きポンポさん製作委員会

 

 

「白い砂のアクアトープ」1話感想ー逃避と挑戦、メンタリティの描きを考える。

満を持して再始動しました、篠原俊哉監督。「色づく世界の明日から」でも監督を務められているし、「神様になった日」絵コンテ回でもかなり印象的なカットが多かった点も記憶に新しいです。

 

karipan.hatenablog.com

 新作の初回を見る際に自分が重要視している点として、「如何に序盤でキャラクター造形を掴ませにくるか」という点に重きをおいて鑑賞しますが、そういった意味では、主人公の一人「宮沢風花」の描写はここ最近の新作アニメ描写の中でも、一際優れていたように感じました。

というのも今作はまず、風花が部屋を売り払う〜沖縄へ向かうというシークエンスから物語が始まりますが、この時点で

自分から夢を諦めた

お人好しではあるが、主体性を放棄している訳では無い

「譲歩」以外においてはかなり行動的なメンタリティの持ち主である

ということがわかるストーリーテリングの情報量の開示に感心しました。

他人に権利を譲歩したとはいえ、そもそも地方から上京してきている時点でかなりの行動力ですし、夢への想いもかなりのものだったと読み取れます。また、逃避目的とは言っても、あてもなく沖縄に行ってみようという気概も中々のものです。しかしこういった描写はやはり、彼女の「譲歩と行動力」の塩梅を表す上では十分すぎるものでした。

そしてこういった彼女の人間性は、篠原監督によって初回の時点でかなり深部まで掘り下げられていきます。

 

①彼女の芝居付けから分かる人間性

彼女の細かな所作に注目してみても、面白いくらい人間性が読み取れます。

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例えば序盤、事務所にお礼の挨拶へ行くシーンでは、自身の振る舞いのやるせなさから、思わず立ち止まってしまう足の芝居付けをフレームに納める意味合いは、後述する理由からもとても強かったように思います。或いはAパートの彼女を捉える上で多い余白の多いカットやロングショットの多さは、彼女の心の隙間を描く上で非常に雄弁でした。


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また面白いのが、喧騒や逃避を描いたAパートとは対照的に、Bパートでは一気に劇伴の雰囲気やテンポ感がスイッチされ、くくるの日常世界へ没入していくコンテワークに思わず魅入ってしまいました。

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FIX*1を中心に映される彼女の日常、しかしその中でも「何か」があると思わせる逆光やライティングの塩梅が絶妙。

 


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閑話休題、ここで面白いのが、篠原監督が多用するプロップ芝居*2。今作ではアイスクリームを用いた演出でしたが、「色づく世界の明日から」、「Charlotte」ではポッキーを用いた描写が象徴的でした。

 

 

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話を戻しますが、占い屋に捕まったシーンでは、占い屋が右手を差し出すことを要求しているのに対して、普通はアイスクリームを左手に持ち替えるところを、風花は口で持ち上げようとしています。また、スマホで親に連絡しようとするシーンでは、メッセージを打ちかけてしまってしまう一連の描写。彼女のお人好しな人間性の裏には「他者に譲りきれない何か」が共存していて、彼女の中でそういった対極にいる2つの心情が常にせめぎ合っていることが分かる描写がおもしろく興味深いです。

 

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だからこそラストシーンにて、序盤では踏み出しきれなかった足がフレームアウトしていく描写は筆舌に尽くし難い感情の揺らぎを感じてしまいました。他者に同調してしまう気持ちの中で、どうしても自分を変えたいという気持ちをここまで画として描き出せるんだなっていう。

 

②風花の心情のベクトルの描き

また序盤の足のシーン、上手方向へ歩くのを躊躇った風花、以降の逃避シークエンスでは上手に行ったり下手に行ったりという描写が印象的で、それは正に彼女の逡巡の想いとして描き出されていました。

 


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そういったベクトルへの意識が、ラストで再び上手へ踏み出すシーンに繋がっていくのは言うまでもないですが、くくると風花の視覚的な位置関係の描写においても例外ではありません。逆光で描かれた二者のショットが、想定線を逸脱して順光に切り替わったのも、徹底した風花の心情の移り変わりの描写、或いはくくるとの対比構造がテーマである、ということが初回から分かります。

 

③篠原監督特有のモチーフ性

神様になった日」5話を記事として取り上げた際にも言及しましたが、篠原監督の特徴として、「静と動」の転換はやはり外せない要素だなと痛感した初回でもありました。

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主に水族館でのシークエンスでそれは一気に顕著になるわけですが、「凪のあすから」「色づく世界の明日から」の系譜から、海かシンボル的に用いられることも分かります。

 

また初回では、色づく世界の明日からの劇中劇で登場していたペンギンか特にモチーフとして強調していたように思います。

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Cパートラスト、率先して海へ潜るファーストペンギンのモチーフ。「輪るピングドラム」でも用いられているギミックですが、ピンドラでは自己犠牲の象徴だったのに対して、やはり今作では「チャンスがあれば掴み続ける」という風花のメンタリティの描きに他ならないと感じます。

 

というわけで、宮沢風花の人間性を、篠原監督の作家性と結びつけて考えてみたの巻でした。お話的にグッと惹かれた訳では無い、しかし初回でここまで一人の人間性を掘り下げるフィルム作り・ストーリーテリングにひたすら感心させられた回でした。とはいえ気になってくるのはやはりくくるとどのように関係性を紡ぐのかという点であり、今後どのように描かれていくのか楽しんで鑑賞する予定です。

*1:カメラ固定

*2:演劇や舞台における小道具を用いた芝居付け

生存報告と近況、最近買った漫画の雑感や今後について

・生存報告と近況

お久しぶりです(といっても二週間ぶりくらい)、カリーパンです。ってか暑いな今日。ここだけの話、自室で半裸状態のまま記事書いてます。まだほんの少し花粉を感じるので、網戸に抵抗がある。

 

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とりあえずアニメージュ6月号は購入。「美少年探偵団」OP絵コンテ・梅津泰臣氏のインタビューも拝見したので、その感想等をふくめた今期OP記事を近日更新予定。

 

Twitterはゲーム用アカウントはちょくちょく確認していたのですが、アニメ鑑賞やアニメ垢にはすっかり手が回らず。というのも、今更モンスターハンターライズにハマってしまうという、、、

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やりすぎ侍


とはいえやることも少なくなってきて、さて是非ともアニメ鑑賞を楽しませていただこうという心持ちだったのですが、実は最新のアップデートが5月末にあるそうで(笑)。最近はやるべき事以外全てゲームの方に手が回ってしまってますが、当然アニメも並行して楽しみたいのが本音ではあるので、時間管理をしっかり心がけていきたいなと。

 

そしてもう一つ大きなことといえば、就活が緩やかに始まりつつあることでしょうか。学校主催の就職ガイダンスやインターンシップのすゝめ等、コロナ禍のなかひっそり忍び寄る現実的問題に些か頭を抱えておりますが、正直実感がまだ強く持てていないのが現状。何かしら資格を取りたいなとは思いつつも全く動けていない、お先が真っ暗だぜ。


離れていた理由としては上記のとおりなんですが、もう一点あげるとするならば、どうしても数字を見てしまう自分に嫌気がさしていることでしょうか。

自己表現と自己満足の境目。最近は自分なんかよりも素晴らしい感想クラスタさんたちを多く見かける中で、どうしてもいいねやRTの数字を気にしてしまう、或いはついえごったーを確認してしまう自分がすごく嫌い。弱者である以上、このルサンチマンと一生共存することになると思うと頭痛がするが、ちはやふる著者・末次先生のとあるブログ記事の一節が頭から離れない。

note.com

比較は毒でしかない。(末次由紀)

あなたの感想があり、そして私も感想もある。SNSで発信している以上自己満足の土俵から降りれないことは承知の上、その分自己表現を高めていきたい。他人を妬むより自己を磨く、足掻きます。

 

・最近買った漫画の雑感

さて、久々のレビュー投稿の慣らし程度に、最近購読して満足度の高い漫画を何冊か。ネタバレはなるべく避けますが、一応ご注意を。

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チ。―地球の運動について― 1-3巻

亜人 17巻

少年のアビス 1-4巻

 

まずは「チ。―地球の運動について―」。

 

これはね、熱すぎる。事前情報ゼロで読んだのですが、割と理詰めな作風を予想していたのもあって、一層込み上げるものがあったよ。2話の時点で涙腺にきた。正に現代社会で忘れ去られている、「投身してでも貫き通したい自己の美学」が投影された作品。前へ倣えではなく常に感動を突き詰める。
自分はDr.STONEも凄く好きなんだけど、どうして学者どもはこうもロマンチストばっかなんだ。自身の持つ直感とイマジネーションを信じてやまない学者たち。理想郷を垣間見るだけでなく、寧ろそれを実現しようとする彼らの姿は胸を打たれずにはいられません。

 

そしてお次は「亜人」、17巻にて最終話を迎えました。

 

亜人(17) (アフタヌーンコミックス)

亜人(17) (アフタヌーンコミックス)

 

原作者の途中離脱など大変だったと思いますが、長期連載本当にお疲れ様でした。原案者の三浦先生の手腕は勿論のもと、徐々に桜井先生の作家性を帯びていく感覚は、リアルタイムで購読していてとても楽しかった。ハードボイルドな作風やSF要素、徹底的な拳銃描写へのこだわり等どことなく虚淵フォロワーを思わせる場面にも思わずニッコリ。
佐藤との決着(詳細は伏せます)が案外あっさりしていたのもよくて、寧ろそういった節々の描写の素朴さが、死なないだけの「人間」たらしめているんだなと。ここからは完全自己解釈ではありますが、不死の人間とは即ち、何度でも立ち上がる不屈の精神のメタファーだったのではないか。だからこそ、1話と最終話で対比された車で轢かれる描写。逃げる側から進む側に、人種差別社会(の中でのテロ攻防)を軸とした物語の中で、かなり上手く今作なりのヒューマニズムに着地したと思う。

 

最後に「少年のアビス」。

 

文句なしのサスペンス×ラブコメ(笑)です。例えるなら、ドメスティックな彼女がよりエンタメ性を帯びて見やすくなった感じでしょうか。主人公に不快感を感じさせずに女性と絡ませる展開の巧さ、閉塞的で陰鬱な作風ながらもキャラクターの濃さで作劇が回転してる様は痛快。今後の展開に期待が高まる一作です。

 

現在購読している作品

・チ。―地球の運動について―
・少年のアビス
・推しの子
・Dr. STONE
・スパイファミリー
・葬送のフリーレン
・僕の心のヤバいやつ
メイドインアビス
・メダリスト
ワンパンマン
・怪獣8号

とはいえワンパンマンは惰性購読に近く、怪獣8号も徐々に好みから乖離し2巻以降購読保留中。読んだ漫画で気になったものはこれからもぼちぼち呟こうかなと

・今後について

中盤で何やらめんどくさいことも書きましたが、とりあえず平常運転で徐々に今期アニメに追いついていこうかと思ってます、これからも何卒

スーパーカブ1話とゆるキャンの演出備忘録

スーパーカブ」1話、アバン。ドビュッシーの楽曲を背景に映される美しい風景の移り変わりは、何気ない日常、1日の始まりを告げるには十分すぎる描写だったと思います。だからこそ、その劇伴・風景の流れが小熊の目覚まし時計を止める芝居と連動して静止する演出*1がとても良くて、それはまさに幾多もの日常の中でも、小熊だけの日常へ没入していく転換点として描かれているように感じます。

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スーパーカブの購入・免許取得の即決、或いはパンを立ち食いしたりと、見かけに寄らずかなり豪快な行動が面白いのですが、寧ろそういった行動の中でも普遍的な女の子らしさを強調させる、FIX×長回しの日常芝居がとても映えます。カット割を多用しないことによって、「アニメというパイプを通して彼女らを見ている」というメタ視点が薄れ、「彼女らと流れゆく時間を共有する」感覚が心地よい。

 

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そういったカットを切り出し始めたらキリがないのですが、例としてこことかもそう。トラックとのすれ違いを思い出して固まる間の取り方とか、瞬き、或いは落ち着いてお茶を飲む。FIXによって動きに目が集中するし、長回しによる時間の切り取り、共有している感覚が感じられるカットが随所で良い。

 

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女の子らしさといえば、Aパートで坂道を登るシーンなんかもそうです。必死に坂道を登る息遣いやネガティヴな独白、嫌なときに嫌なことを連想してしまう、というメンタリティの描きが至極リアルで、漕ぎゆく小熊を正面から捉えたカットが重みを帯びてじわPANされる演出も、そういった小熊の心情にフォーカスしたものに感じられました。

 

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だからこそラストカットにて、自転車を漕いでいた時には感じられなかった風を感じさせる自然な髪のなびき、或いは手前から奥へ突き抜けていく小熊を捉えたPANアップが、前述の自転車シーンと対比となっているのが凄く良い。

 


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対比と言えば朝のルーティンを捉えた一連の日常芝居もそうなのですが、レトルトを選びとる手の仕草に迷いが無くなっていたり、また窓から顔を覗かせればスーパーカブが迎え入れる。彼女の中で特別大きな変化があったわけではないですが、空洞で無色だった日常が確かに色づいていく。日常の切り抜きを垣間見る感覚にどうしようもなく心が奪われていきそうです。

 

そして「ゆるキャン△ SEASON2」。京極義昭監督特有の写実的なフィルム構成は、アニメを彩る造形豊かなキャラクターたちと共存することで、ある種の化学反応的な効果を起こしていたと思います。なでしこやしまりん達の可愛らしい仕草にほっこりさせられる中で、カメラマップや広角レンズを駆使したレイアウトは目を引くものがありましたが、そういったカットは決して「ゆるキャン」の世界の中で異質なものではなく、寧ろ彼女たちが彼女たちであるための世界そのものでした。

特に目を引いたシークエンスは、9話、13話のツーリングをする場面。どちらの挿話も京極監督が絵コンテに参加されている点からも、強めな演出意図を感じられました。寧ろ9話は、ツーリングの場面に限らず、終始光源の使い方・ライティングの塩梅に細心の注意が払われていたように思います*2

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家族間の会話のインサートで挟まる、こうして薄く照らされた廊下のカットもそうです。「敢えて」余白を省かない。それはやはり、作中の世界に生きているキャラクターたちの生活感を重んじる上で、効果的なコンテの切り方に感じました。

或いはその後のツーリングの描写だって、りんたちにとっては日常というインサートの延長線上だったのだと思います。


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それは一点透視図・ライティングの点で廊下のカットと類似性のあるこういったトンネルのカットもそうですし、ヘッドライトや月などのりんと大塚の二人を照らし続ける光源に、温もり・慈愛を感じさせられました。またこれはスーパーカブにもいえるのですが、独白・ダイアローグの一切が切除され劇伴に仮託されたシーンが多いのに、思わず感情移入をしてしまうフィルム作りが本当に素晴らしくて、「距離感・心情の説明をわざわざ文字に起こさなくてもいいよね」という読み手を信頼した作り手の投げかけに感動しました。

 


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そして13話(最終回)。9話のツーリングでも挟まれていたりんの口を開く仕草と連動して、富士山をBGとしたロングショットが対比となっているのがとても良かったです。進行方向の逆転、上手から下手への帰還。それはまさしく、「帰ってきた」というりんの安堵感を捉えた画として、とてもよい対照性の構図でした。

 


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そして最後、これは演出意図というより脚本の話に近いのですが、コンビニの描写について。スーパーカブゆるキャン△の共通項でもあり、どちらかというとスーパーカブの方の小熊が安堵する芝居が挟まるのがすごくいいんだけども。どちらも状況設定として夜間であることが良さを引き立てていますが、淡いライティングで照らされたコンビニは、少なめの登場人物にフォーカスする両作にとって、人に溢れた世界で生きているという生活感がより強調される舞台装置となっているのがいい。彼女たちが紛れもなくそこにいるという実感、フィルムの向こう側の世界という垣根を超えた「時間を共有する」ことの意味。

 

スーパーカブで画的に描かれる彩度の転換、ゆるキャン△による洗練された画面レイアウト。彼女たちの中で劇的な変化があったわけではない、寧ろゆっくりとした時間が流れゆく、そこにドラマの行間として生活風景が流れる意味。変に動かすわけではなく、寧ろ覗かせてもらうような静かなカメラワーク、或いはささいな生活音という「生の実感」にどうしようもなく心を掴まされてしまうわけです。

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©Tone Koken,hiro/ベアモータース

©あfろ芳文社/野外活動委員会

*1:目覚まし時計が止まると、劇伴も止まる

*2:スーパーカブ1話でも、彼女の心情とリンクする彩度の転換・撮影処理が印象的でした