2020年秋アニメ―月の演出やレイアウト構成のモチーフ性
あけましておめでとうございます、カリーパンです。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。
2020年秋アニメ、コロナ延期明けの影響もあってか、かなりたくさんの作品に触れることができとても楽しいクールでした。本記事では、前クールアニメの演出面を中心に、色々考えを巡らせる場になるかと思います。
まずは「トニカクカワイイ」。気恥ずかしさすら感じられる相思相愛な夫婦コメディ。原作の畑健二郎先生の奥さんに対する愛情、何個か用いられているであろう体験談からなるエピソードは、まさにライターの幸福感が感じられ、非常に見ていて心地の良い作品でした。
「竹取物語」を彷彿とさせる絶妙なリアリティラインも本作の魅力でしたが、そういった雰囲気を引き出していた存在として、やはり「月」の描写に仮託されたモチーフ性は、無視できない点もあったように思います。例えば1話、事故を起こしたナサ君を引き上げる司のシーン。
司と月を映したカットは一見ナサ君視点の主観ショットのように思う、というより、主観ショットではあるのですが、どこかぬぐえない、月と人物描写の距離感に対する違和感。本来ナサ君視点ではもっと月が小さく見えるはずなのに、あえて遠くにある被写体を大きく映す、望遠レンズ*1的なレイアウト。アニメーションにおいて、キャラクターが月に手を伸ばすことで、そのキャラクターの到達目標・目的との距離感をフィルム的に表す、という演出は鉄板ですが、今作は視覚的にナサ君と司の間の距離を切り離すことで、どこかリアリティが欠如した、「(司が)掴めそうで掴めない存在」であることを印象付けるシーンに思いました。
しかしそれは決して二者間の断絶を表しているのではなく、元々博識な二人が他者とのダイアローグを通して互いを理解することで、「距離を縮める」作劇である、ということを端的に表していたように感じました。
だらかこそ1話終盤、こういった月へのPANアップ・PANダウンによるシームレスなカット繋ぎも、やはり「月」を介在させることで伝えたい二人だけの距離感があるんだろうな、という。立ち位置を始めとしたレイアウト構図、二人だけの空間を立体的に照らすライティングの塩梅。コンテの切り方や撮影処理に「トニカク」こだわりを感じた初回でした。だから自然と、ナサ君が追いかける物語から、司をエスコートする物語にシフトしていくような画作りも良かったです。
作画が単調という旨のツイートをよく見かけましたが、むしろこういった拾いやすい線で描かれた、スッキリしたキャラクターデザインの造形は、芝居付けも見通しが良かったし、なにより原作の雰囲気がそのまま踏襲されていて、制作スタッフ様には感謝の言葉もないです。
キャラクターデザインといえば、もう一作ピンときたのが「憂国のモリアーティ」。現代の読み手の身に馴染みやすいよう、多少原作「シャーロック・ホームズ」からの脚色は見受けられました。
しかし、19世紀後半当時の時代考証に基づいた差別描写・階級制度の描き方は素晴らしかったし、産業革命当時の雰囲気をを存分に演出した「淀んだ空気感」の撮影処理もこだわってた。
キャラクターデザインの話に戻りますが、「女性向けのキャラデザ」と言ってしまえばそこまでなんですが、意識して造形されたソリッドな頭身・顔立ちは、やはり作品の魅力を存分に引き出していたと思います。
例えば1話の、こういったカットとか。前半クールの中でウィリアムが煙草を吸ったシーンはここだけなんですが、背中を映すカットの余白、そこからのこの表情芝居。風による髪のなびきの描写もすごく自然な感じで最高にいいんですが、彼の中では背中の後ろで起こっている犯罪行為こそが日常になってるんだよなっていう。過去編をとばして、敢えてこの回を挿入した意図。彼の人間性を語る上では十分すぎるほど雄弁な挿話でした。
そして第三話、ここでまた印象的な「月」の描写が。
アルバートが一線を越えるシーン、緋色を基調としたフィルムに転換するのも特徴的ですが、前へ歩を進めるアルバートとリンクして照らされる表情へのライティングの浸食。「越えてはいけない何か」を跨いでしまったかのような。そして、またしても手前の被写体と背景の月の距離感に敢えて違和感を持たせる、望遠レンズ的なレイアウト。
物語の狂気性・異質さを強調するような画作り、そして物語が次の場面に移ると、通常のレイアウトに”戻る”。読み手を引き付ける物語は起伏の作り方が巧みで、盛り上がるシーンの合間に「余白」(読み手が状況・感情を整理する間)が意識してつくられていることが多いですが、こういった意識的なフィルムの転換からもそういったメリハリの良さが感じられ、より感情移入できた場面でした。
月を映すカメラの遠近感の工夫といえば、配信&劇場アニメ「BURN THE WITCH」も印象的でした。簡単に表裏がひっくり変える世界、「ドラゴン」という異形が中心となって、日常性を堅持する既存社会の崩壊を描く物語でした。戦闘シーンでは特撮的な撮り方を思わせるロングショットなども印象的でしたが、特に「シンデレラ」と称されたドラゴンが君臨するシーン。
足を食い込ませた際のカメラのブレ、羽で時計を覆い隠すというような巨大感を表す演出も最高にいいのですが、ここでPANアップで映されるシンデレラと「月」の共演は、モチーフ性・虚構性を際立たせる描写としては十分すぎるほどのインパクトある描写。
川野「怪獣映画というか、なるべく望遠でカメラを置いたり、カメラ位置を下げたりして、巨大感を出す定番の表現を入れています。
月刊ニュータイプ11月号のインタビューにて川野達朗監督がこうおっしゃっていましたが、特にそういった視覚的な工夫が見られる場面だったように思います。
そしてこの後、即座にニニーとのえるの肩越しに捉えた広角レイアウトにカット転換するのも「なるほどな」と唸らされるのですが、ここで一旦「画面の中で一番注目されている被写体」から距離をおき、それ(シンデレラ)と対峙する人間サイドの主観的な視点に戻すことで、「ドラゴンの存在感を強調する→それと対峙している側の緊張感」を連続的に演出することに成功しているカット繋ぎ。考え抜かれた「異形の存在感」の描き方は、思わず声を上げてしまいそうになるほど圧巻でした*2。
そして最後に、「魔女の旅々」。
例えば2話なんかでは、窓から射す月光の逆光により照らされるイレイナ、そして対照的に、芝居ごとに目のハイライトや表情の光量が変化するサヤ。そして曇りが晴れて満ちる月の描写は、まさに二人の関係性を表しているようで非常に叙情的でした。しかしここで注目したいのが、そういった演出が示す意図や意味合いというよりも、本作が「小説原作」であること。例えば上で挙げた「トニカクカワイイ」と「BURN THE WITCH」なんかは一部原作読了済みですが、やはり漫画であるため、先に挙げたモチーフ性を象徴する「月」の描写がある程度画としてなされているからこそ、映像にもアダプテーションしやすいだろうと思う。「魔女の旅々」は原作未読なのが歯がゆいですが、もしそういった「月」の情景描写がある程度地の文で書かれていたとしても、やはりそこは地の文を映像として抽出するアニメスタッフの器量に委ねられるわけですが、こういった「小説→映像化にあたってのレイアウト的な工夫」を想像するのが非常に楽しい作品でした。
例えばそれは、作品における視覚的な方向性。アバンにてイレイナがほうきで飛んでいる描写から始まる挿話は、決まって上手から下手(右から左)へと飛んでいく。まるでそれが旅路の順方向、「後戻りできない旅」を象徴するかのように。それを裏付けるかのように、第10話「二人の師匠」では、旅路を順方向に飛んでいたフランとシーラが、弟子たちの危機を察知して、旅路を下手から上手へ逆行する(引き返す)描写が印象的でしたが、こういった意識的な方向性に仮託した意図は無視できないと思います。
そして最終話。これまでの挿話で喜劇や悲劇を交互に描いてきたり、そして最終回では選択の違いによって分岐した様々なイレイナのアイデンティティを描いたりと、とにかく「色んな世界観・イレイナを描きたい」という筆者のエゴが見え隠れしていてとても楽しく鑑賞しておりました。魔女の旅「々」とはそういうことだったのかと。そういった世界観に対する幅の持たせ方が、序盤の「魔女」に対するリアリティラインが掴みづらい要因となっていましたが*3、最終回で多元的な解釈を演出するためのささやかな弊害だったのだろう。そして最終回のラストシーン。
後戻りのできない旅、選択の重要性を今一度強調するように、再びイレイナが順方向へ飛んでいく描写にとにかく心を動かされたのですが、後悔の念故に逆行していた「粗暴なイレイナ」と和解をしてからこの描写を挟んだ点も、「彼女が彼女であるため」の旅路なんだよなっていう。
こういった地の文では表現しきれない視覚的な訴えを目の当たりにすると、改めて「アニメってすごい」と思わされるわけです。この文化を好きになれてよかったとしみじみ思う、今年もたくさん「アニメ」の魅力を体感できる1年でありますように。