カリーパンの趣味備忘録

視覚から得る情報の雄弁さは計り知れない。

「さよならを教えて 〜comment te dire adieu〜」感想―救済の有無、自己実現の対極

確か6月頃にDLsite様より購入してちんたら進めていた「さよならを教えて」、ようやっと全ルート読了しました。総括的に一言で感想をまとめると、「救いはなかった」と思う。以下、まず簡単なゲーム概要から。

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www.amazon.co.jp

あらすじ

主人公は教育実習生としてとある女子校を訪れていた。ある日、彼は美しい天使が異形の怪物に蹂躙されるという奇妙な夢を見る。彼が校内の保健医にその夢の相談をしていた時、一人の少女が保健室を訪れる。主人公の見た彼女の容姿は夢の中の天使に酷似していた。主人公は教育実習生としてヒロイン達と親しくなりながら奇妙な夢の真相を探る。 (Wikipediaより)

 

PV


さよならを教えて ~comment te dire adieu~ デモムービー

 

 所謂アダルトゲームとなりますが、その枠に収まるにはもったいないレベルで読み物として優れていると思います。支離滅裂なテキストの羅列を、ストーリーラインに無理矢理整合性を持たせるように並べたような構成で、ある種目新しさもありました。信頼できないというレベルではなく、「全く」信頼できない語り手といっても過言ではないかもしれません(笑)。この作品において重要な要素は、自己実現とは?の1点に尽きると思います。

純文学に精通のある方、信仰心や哲学に詳しい方だと、より作品の世界観にのめり込めて面白いんじゃないかと。特に音楽面は、メランコリーな作品の世界観を存分に引き出した素晴らしい楽曲の数々となっておりますので、気になる方は是非調べていただきたい。

余談ですが、かなり刺激の強いゲーム故このような注意表示が最初に移されます。苦手な方は購入を控えた方がよろしいかと。

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それでは以下、ネタバレありの本題です。

目次

 

 

1.ゲームシステムについて

本作品は2001年発売のゲームとなっておりますが、「信頼できない語り手」トリックが用いられており、テキストゲームならではの工夫がふんだんに組み込まれていて、かなり目を引くものがありました。しかし、こういった手法が主流になってきた現代では、如何せん目新しさの点では弱く感じてしまいました。もっと早くこの作品と出会いたかったなと後悔。
こういった点はビジュアル面でも感じられて、現代の「萌え」に慣れてしまった今となっては特に強い魅力を感じたわけでもなく、プレイしていて非常に歯がゆかった。また、音楽面では、上でも記した通り全く色あせない上々の出来となっているので、是非プレイして直接きいていただきたいものです。

 

2.自己という世界≒殻に籠る主人公

この項が一番本記事で詰めたかった点です。長くなるかも
まず今作では、大きく緋色、黒色、白色の3色のモチーフカラーによって物語が彩られていると感じます。もっと本質的に言うと、塗りつぶされていると言ったほうが正しいか。黒と白は対極で一つだと言えるため、まず緋色から感じられた所感を。
MELLさんが歌唱を担当されている本作の主題歌「さよならを教えて」のサビフレーズ「昼と夜の間で 時間(とき)が止まる 終わりのない 永遠の夕暮れ時」が特に象徴的でしたが、本作の舞台は終始一貫して夕暮れ時が描かれており、妄想からいつまでも抜け出せない主人公、時の牢獄性を象徴する色合いに感じました。余談ですが、「Angel Beats!」も学校&夕焼けという舞台背景セットが印象的で、死から逃れられない人間が描かれるわけですが、牢獄性のモチーフとしては案外主流なんですかね。


閑話休題、主人公のモノローグで特に印象的だったのがこの部分。

僕の知覚の中以外のどこに世界があるって言うんだ?

自己の存在確認なんて、誰にもできはしない。スーパーヒーローだって。

だから僕が世界じゃないか。僕は世界だ。だから僕が世界を救うしかないんだ。 

 この文言は、ヘルマン・ヘッセ 著「デミアンの有名な一節、「卵は世界だ」と対であると言えます。

「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。 卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」(『デミアン高橋健二訳)

 少女革命ウテナでも引用されているこの一節は、一種の「自己変革」論であると言えます。しかし今作「さよならを教えて」では、徹底的に「自己変革」と対極の位置にいる主人公の姿が描かれており、上に挙げた対比のような節からもそういった点が伺えました。ここで「白」というモチーフカラーが重要となってくるのですが、今作ではさらに二種類の白、精液や便器といった汚い「白」、天使(翼)や主治医の白衣といった清潔の象徴としての「白」の2種類に分類されています。様々な感想サイトで論争が行われておりますが、自分の解釈としては、前者の白は自己を内包する閉塞的な「卵の殻」の象徴、後者は卵の割れ目から除く淡い「光源」そのものを表していたのかなと。当然「黒」は、それらと対をなす主人公の存在そのもの。

 

3.ヒロイン別感想

今作は睦月√以外は基本的に順番を気にせずプレイしてよいと思います*1。以下自分の攻略順で掲載しています。

 

高田望美(たかだ のぞみ)

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「私、飛べるのかな?」(高田望美)

今作のヒロインたちは主人公の「何者にも成れない」苦悩からくる自己投影的存在として描かれますが、彼女は主に夢へ飛翔できないでいる主人公の体現だったと言えるでしょう。彼女のイメージである「カラス」というモチーフ性、ラストで彼女が建物の屋上に書きなぐる”rebirth"(再誕)という文字も、上であげた「デミアン」との対比のイメージを一番感じたヒロインでした。

特に印象的だったのは、主人公の吸っていたたばこに興味を示すシーン。単純に興味をそそられているような描写は可愛げで、それでいていつまでも「子供」であることにしびれを切らした彼女の決別したいという気持ちが切に表れた場面でもあり、心をえぐられました。

彼女は特にそういった内面に抱えた苦悩が強く伺えたため、どの√でも救いがなく非常にショックでした。しかしそれは同時に主人公も救われなかった(飛べなかった)ことを表すため、必然的な悲劇だったんだと思います。無念。

 

目黒御幸(めぐろ みゆき)

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がすっ、がすっ・・・
何度も、何度も、僕は御幸の頭を机に叩きつけた。
何度も、何度も、僕は御幸の頭を机に叩きつけた。
何度も、何度も、僕は御幸の頭を机に叩きつけた。
何度も、何度も、僕は御幸の頭を机に叩きつけた。
何度も、何度も、僕は御幸の頭を机に叩きつけた。
何度も、何度も、僕は御幸の頭を机に叩きつけた。
何度も、何度も、僕は御幸の頭を机に叩きつけた。
何度も、何度も、僕は御幸の頭を机に叩きつけた。
何度も、何度も、僕は御幸の頭を机に叩きつけた。
何度も、何度も、僕は御幸の頭を机に叩きつけた。
何度も、何度も、僕は御幸の頭を机に叩きつけた。

 一言で言い表せば、もの静かな博識少女というありがちな役割付けのヒロインでしたが、今作においては、まさに一番自己投影が如実に表れていたように感じました。勉学に対するコンプレックスだとか、コミュニケーションに苦悩する姿なんかは特に、自身にも思い当たる節もあり辛かった。

そして今作は、自己の破壊の象徴として、必ず主人公が全ヒロインに暴力的な行為をするシーンがあったのですが、上で引用した主人公のモノローグからも伝わるように、彼女に対しては特にその傾向に過剰さが際立っていたように感じました。高圧的な態度を表面に表すヒロインでしたが、同時に主人公の異常なまでのプライドの高さも印象付けられました。

博識少女という設定上、他の創作を引用したヒロイン毎の解説(狂言回しに近い)が全√に必ずあって、本ゲームのライターが伝えたいことの代弁的な位置づけだったことも印象的だったか。眼鏡好きは要チェック

 

田町まひる(たまち まひる

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「どうして、まひるのことイジメるの?」(田町まひる

 作劇に一貫して流れるどす黒い雰囲気の清涼剤的な役割かと一瞬期待しましたが、決してそんなことはなかったです。いや、知ってましたけどね(泣)。過去の心的外傷と戦う主人公と、終始可愛げな仕草で振る舞う彼女の描写は、くしくも許しを請う主人公の姿そのもので、表面上は明るい場面も全く癒したり得ない悲しさ。

一般的なゲームにおける幼馴染的なキャラで序盤こそ愛くるしい姿とBGMが作劇の緩和剤となっていたが、案の定終盤は痛々しい(物理)場面のオンパレードで落差が辛かった。彼女は明るくとも、主人公を赦してくれる存在などいなかった

自分の好みではありませんでしたが、おそらく作品中でもかなり人気のあるキャラだったのかなと思います。

 

上野こより(うえの こより)

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「そのヒクツさはぁ、すでに傲慢ですよぉ」(上野こより) 

 個人的に一番好きなキャラでした。気怠さを隠そうともしないゆったりとした口調や楽観的な性格はまさに自分のツボでしたし、およそ学生のものとは思えない豊満な体つきの官能的なこと。上記3ヒロインは何らかの側面における主人公の自己投影的存在でしたが、逆に彼女は主人公の対極として描かれていました。根詰めて考え込んでしまう主人公、どこまでも楽観的なこよりの描写など。

豊満な体つき、という点も決して意味がないわけではなく、主人公が彼女とのコミュニケーションにおいてたじろぐ要因となっており、くしくも主人公の女性に対するコミュ障っぷりを描き出していました。この辺りも感情移入しやすかったかなと。

楽観的な思考だったという点を強調しておりますが、だからこそそういったキャラに上で引用したようなセリフを言わせる(仮託する)ライターは、やはり今作の魅せ方を分かってるなぁと感心した場面でもありました。お見事。

 

巣鴨睦月(すがも むつき)

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「そうです。あのコが僕の畏敬する天使様なのです」(主人公) 

 まずプレイした感想として、彼女を「天使」と位置付ける点がやはりまた唸らされる。彼女は上記5人中唯一の実在するヒロインであり、また「再び飛ぶこと」を赦された存在だったのだなと。

この作品における、所謂「トゥルーエンド」の位置づけを敢えて定義するならやはりこの√なのですが、それにも関わらず主人公は他の√と全く同じ終幕を迎えるのが印象的だったなと。「CHAOS;CHILD」をプレイしたときも思ったのですが、やはりプロットのよいゲームは√の位置づけ(というより”トゥルー”エンドの在り方)から違うなと唸らされる。睦月は飛び上がったとしても、自分を赦せなかった主人公は結局同じ終焉をたどる。

別√ではモノローグで完結させていた一人の狂いに狂いまくった殻の中の雛が、皮肉にも異質なダイアローグによって一人の少女を救済した。主人公に救いはなかったが、我ら読み手には少なからずしっかりとした余韻が残った。

 

4.最後に

あまりガッツリは取り上げませんが、最後に作中で用いられた「スーパーマリオ」の話から思ったことを少々。

大森となえ*2「幻覚キノコを食べて、身体が大きくなる・・・・

    花を取ったら火が吹けて・・・・

    大麻のさ、一番キクところって知ってる?

    トップっつってね、要するに花なんだけど」

 

主人公「僕がマリオなら、誰かが操作してるはずなんだ!」

 もちろん某任〇堂様のゲームにこんな事実はなく(笑)、いもしないピーチ姫(≒ヒロインたち)の救済に奔走する主人公を咎めるとなえさんの台詞なんですが、主人公にここまで(ゲームとして)メタ的な台詞を仮託したことにもやっぱり意味はあると思ってて。「信頼できない語り手」的演出として主人公がプレイヤーの選択肢と全く違う行動をとる描写もあるのですが、この作品における主人公とプレイヤーは全くの別人なのだ。だからこの作品に救済はなかったと捉える人もいるし、一人の少女を救ったという事実に安堵する人もいる。個人的な意見としては前者だが。

「主人公の操作」という枠から切り離される作品に対する相対性、解釈の多元性は、紛れもなく今作をカルト的ゲームたらしめる要因だったと思う。

 

©VisualArt's/CRAFTWORK

*1:睦月√はラスト推奨。

*2:作中の登場人物、スクールカウンセラー。女性でヒロイン枠に近しいが√は無い

「クリエイターの創造から生まれるアジテーション」―Newtype 12月号 感想

Twitterで軽く所感を呟く程度にとどめようど考えていたのですが、雑誌を読んでいるうちに思うところがとめどなく膨らんでいって、こうしてブログを執筆している次第です。アニメを含め創作と向き合うにあたって、「面白ければいい」から「制作者さんの工夫を知りたい」へと転換しているんですよね。日に日に。勿論「楽しければいいじゃない!」という感覚は大事だと思うのですが、クリエイターの方々の工夫で見えてくる創作の多彩な側面をしっかり咀嚼していきたいなと。とまあ詭弁はこの辺にして感想を。異様に長くなってしまったので、目次から気になる項だけでも読んでいただければ幸いです。

 

ニュータイプ 2020年12月号

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  • 発売日: 2020/11/10
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 目次

 

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 ―劇伴によって引き出される感情の共鳴

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まず初めに率直な感想を述べますと、原作未読で臨んだ身としては感情移入がしやすい本とは言えなかったなと。今作はTVシリーズ時より、原作からの忠実なアダプテーションがファンから評価されておりましたが、弊害として、感情の咀嚼を阻害するレベルのモノローグ解説の多さは映像化されたことにより悪目立ちしてしまったし、なにより週連載によって丁寧に掘り下げられていた「煉獄杏寿郎」の人間性を、映画尺の中で描き切ってしまった(時間は伸縮しない)点も、イマイチ本の情感に入り込みづらい一因でした。
とはいえ、リアルを追求した3DCGによる背景美術の上から、リアリティ溢れる繊密なセル画で描かれた炭次郎をはじめとする鬼殺隊の面々は、奇しくも「人間VS鬼」という今作のテーマ性を象徴するようで素晴らしい画作りだったし、劇伴による感情への相乗効果の圧倒的高さは、評価されるべき要素だと思います。
と、ここまでが映画のみの感想でしたが、Newtype 12月号にて、劇伴を担当された梶浦由記氏・椎名豪氏のインタビューが掲載されていて、また改めて作品に対する印象が変化しました。

TVシリーズからの制作体制の変更点を質問されて) 
椎名「基本的には変わっていません。ufotableさんの作品はTVシリーズでも、劇場版でもフィルムスコアリング(映像に合わせて音楽をつくる手法)が多いんです。

 

 梶浦「ufotableさんは映画のなかで「音楽を聴かせる場所」をつくってくれるんです。音楽の効果を考えて、映像をつくってくださることはとてもありがたいですし、そういうシーンの音楽をつくるのはプレッシャーもあります。でも、音楽のつくりがいも大きいんですよね。」

 フィルムスコアリングという手法は音楽手法に疎い自分は初めて知りましたが、必ずしも音楽→映像の順番じゃないんだなと。ここまで読んでなんとなく思い出したのが「天気の子」公開時インタビューにて新海誠監督の「RADWIMPSさんの音楽が輝く瞬間を、この映画が最も輝く瞬間にしたい」という発言、今作「鬼滅の刃」の制作スタッフの熱量と合致している気がして、自然と感動してしまったんですよね。
ここでもう一つ、最近鑑賞した作品であるため記憶に新しい「劇場版「空の境界」 俯瞰風景」。

 

劇場版「空の境界」 俯瞰風景 【通常版】 [DVD]

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同じく梶浦由記さんが音楽を担当されていますが、浮遊する意識と地に足をつける両儀式の戦闘シーン、シークエンスの持ち合わせる熱量に呼応するように盛り上がる劇伴は、まさしくフィルムスコアリングによって制作された劇伴ではないだろうか。動きのある作画や迫力際立つ撮影処理の数々も圧巻でしたが、劇伴に関しても、作品を裏から引き立てるというよりは、むしろ「一番作品で輝いていた」要素ではないだろうか。
鬼滅の刃 無限列車編、鑑賞時は漫画から映画へとアダプテーションする過程においての欠点が露呈した作品のように感じましたが、クリエイタ―の方々の工夫を知った今、むしろ「映像でしかできない表現」の良さを改めて知ることができた作品でした。

 

魔女見習いをさがして ―延長線上ではなく、「リアル」を描いた意味

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自分は所謂「おジャ魔女どれみ」は全くの未鑑賞で、作品におけるキャッチコピーやTwitter・ブログのレビュアーさん方の「おジャ魔女を見てない人でも楽しめる」という後押しのもと今作の鑑賞という決断に踏み切りました。さすがに第一シリーズの1話を見てから鑑賞に臨みましたが。しかし「おジャ魔女」の映画であるということで以前から期待を寄せていたファンの方々からすると、キャストやあらすじが公開されるにつれて「どれみちゃん達のその後を描かない」という制作陣の決断は、少なからずショックを受けたのかなと思います。
とそんな感じの第一印象を受けながら鑑賞した今作「魔女見習いをさがして」、まず最初にフィルムの特色として印象に残ったのが、かなりパッキリとした陰影による画面レイアウトの断面。光影の演出によって付けられた影の境界線がかなりくっきりと引かれてるんですよね。影絵的に表現されるどれみ達、魔法玉に映るハイライトの消失、関係性の亀裂を象徴するような影によって引かれる境界線。シークエンスによって表現の仕方は様々でしたが、徹底して現実と魔法の乖離が描かれているように感じました。Newtype 12月号、監督・佐藤順一氏×プロデューサー・関弘美氏インタビューにて、両名はこう綴ります。

 (どれみを見ていたファンを描くのに、キャラクターデザインを「どれみ」調にした理由を質問されて)

関「確かに実写寄りにすれば、とおっしゃる方もいました。でもそうすると、実写とアニメの世界に優劣ができてしまう気がしたんです。メタに立ちすぎるというか、それはこの企画がめざすものとは違う。」

 

佐藤「子供のころに見た作品からもらったものって、大人になってからも残っていると思うんです。<中略>たとえ番組の内容は忘れてしまっても、ふと思い出すことがある。この映画が、そんなことを意識できる作品になって欲しいですね。」 

 今作は「おジャ魔女どれみ」を創作として享受する人物たちが描かれるわけですが、ここで実写などの決断に踏み切らなかったのは、あくまで「どれみらしさ」を尊重したい制作陣の思い入れの表れでもあるのかなと。ともすればキャラクターデザイン(馬越氏)の頭身が一貫してどれみ調で描かれていたり、あえてアニメーション的な「くずし」をふんだんに詰め込んだコンテ構成も納得のいく判断だなと。それを踏まえて上に挙げた光影の演出にしても、現実と魔法の断絶をメタ的に表したものではなく、自己実現の過程において彼女たちの間にある等身大の悩みをフィルムとして表現したものなんだなと改めて思い直しました。だからこそラスト、それまで影として描かれてきたどれみ達が色彩豊かな姿でMAHO堂に顕現するかのような演出は、「いつでもそばで応援しているよ」というクリエイターからの、ひいては作品そのもののメッセージのように感じられて、筆舌に尽くしがたいほどの叙情に駆られ、どれみ達を知らない自分でも涙腺に来るものがありました。

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今作で描かれていたのは、魔法の否定ではなく、あくまでひとつの「創作への向き合い方」の道を示したものなんだと、クリエイターの方々の工夫に触れることで改めて思い直すことができました。

 

GOTCHA!―リアリティは時にリアルに昇華する

今月号のNewtype購入に踏み切った理由のひとつがこれ。こんな素晴らしいMVを制作してくださった方のインタビュー、これは是非読みたいなと。知らない方のために詳細、YouTubeにて公開されたポケットモンスター×BUMP OF CHICKENによるスペシャルミュージックビデオです。リンクもそっと添えておきます。


【Official】Pokémon Special Music Video 「GOTCHA!」 | BUMP OF CHICKEN - Acacia

感想や考察に関しては以前別記事にてかなり詰めたため、本稿ではインタビューを読んだうえでの補足的感想をチョロっと呟こうかなと。下に別記事のリンク貼っておきます。

 

karipan.hatenablog.com

 個人的に嬉しかったのが、上記記事にて予想していた、中村豊さんの担当カットが的中していたんですよね(笑)。表情から表情への流れるような躍動感あるカット運びは、やはり彼だからこそ描けるかっとだよな、という。
本MVを担当したアニメーター3人のインタビューでは、やはりキャラクターデザイン・作画監督を務められた林祐己氏のお話が印象的でした。

林「基本的に、奥にある「ポケモン」世界と手前の現実世界の2つに分けて、「ポケモン」世界のほうはゲームに準じたデザイン。手前は「ベイビーアイラブユーだぜ」*1とか、これまでの松本作品のテイストに近づけたデザインでいく、という話でした。

 これだけ聞くと、上記の「魔女見習いをさがして」と通ずるものが感じられますが、ここで大事なのは、現実世界の描写はよりリアリティを持たせている点。ポケモン世界と現実世界、この境界がしっかりとキャラクターデザインの頭身に対比的に表れています。こういった世界観にするという決定を下した監督・松本理恵さんのポケモンに対する思いをつづったインタビュー記事も、是非購入して読んでいただきたいものです。

 

©吾峠呼世晴集英社アニプレックスufotable

©東映東映アニメーション

*1:菓子メーカー・ロッテの創業70周年を記念して制作されたショート・フィルム。BUMP OF CHICKENの「新世界」に乗せ、ロッテの商品をモチーフにしたキャラクターたちが次々と登場。今作「GOTCHA!」と同制作スタッフが多い

「神様になった日」 7話感想―卵の殻(世界)、内から割るか?外から割るか?

神様になった日 7話。6話にて登場したCharlotteの高城君ですが、話題性の確保のみが狙いではなく、案外テーマ性に連結があるのかな、と思わせる挿話でした。
まず今回の話を自分なりに解釈するにあたって流石に触れておきたかったのが、本話中でひなが歌唱していた麻枝氏作詞・作曲の「Karma」。ここでまた安定の謝罪となりますが、麻枝信者ではない故楽曲の存在すら知りませんでした(教えてくださったTwitterの皆さんありがとう)。しっかり楽曲を鑑賞してきました、とりあえず歌詞をお借りします。

作詞・作曲:麻枝准 編曲:ANANT-GARDE EYES 唄:Lia

卵でさえ上手く割れない そんな不器用なきみなのに
この世界を救えるという その身を犠牲して

今では誰もがきみのこと まるで英雄のように見立てて
きれいな服を着せたりして はだしのまま逃げてくる

何もできないきみだって 僕は好きなままいたよ
運命というものなんて
信じない いつだって 理不尽で おかしくて
きみだって 笑ってやれ こんな理不尽を

寄せては返す光を背に 楽しげにきみは歌ってた
波音を言い訳にしても 音はとれてなかった

きみからはすべてが欠けてて それゆえすべてと繋がれる
いのちになれるということ 僕もいつか気づいてた

贅沢なんかいわない 悲しみだって受けるよ
だから君という人だけ
ここにいて ずっといて 僕から 離さないで
どんなことも恐れず 生きていくから

初めて見せるような顔で きみは歩いていった
その運命を果たすために

何もできないきみだって 僕は好きなままいるよ
運命というものなんて 僕は決して信じない
卵も割れなくていい いくつでも僕が割るよ
歌が下手だっていいよ こうして僕が歌うよ

Requiem for the air Requiem for the river
Requiem for the wind Requiem for the light
Requiem for the forest Requiem for the sun
Requiem for ther land and the ocean

Requiem for the heaven Requiem for the heaven
Requiem for the heaven
僕は走る
Requiem for the heaven Requiem for the heaven
神をも恐れず

 一旦歌詞は置いといてまず本編、前半は劇中劇を制作するシークエンスと、これまた物語における世界の二重構造を彷彿とさせる内容でした。余談ですが、毎回TVゲームシーンを必ず挟むのも意図的でしょうね。と、そんなTVゲームシーンにて早くも確信めいたセリフが飛びます。

伊座並「なぜ分子レベルで崩壊したものを、わざわざ再構築してあげるの?」

―神様になった日 7話より 

 うーんここにきて量子力学、「ノエイン」やら「ゼーガペイン」をおっぱじめる気か?とも。ともあれ量子力学による存在証明、Charlotte 1話でも語られていた「我思う、故に我あり」、デカルト方法序説だろう。自分自身を含めた全てのものが偽りのものであったとしても、その疑っている自分自身の存在を疑うことはできない。「STEINS;GATE」でいうアルパカマン(1話より)が考えとして近いですね。

こういった点を踏まえた上で見返す7話ファーストカット、被写体深度*1を転換させる演出で、金魚(≒成神たち)が鉢(≒仮想世界)からみた世界のぼかしを表していたようにも思える。金魚鉢の側面は屈折しているから金魚は外界が歪んで見えているが、金魚と自分たちの見ている世界が違うからといって、それが観測上のリアリティーの証明にはならない(自分たちもまた、歪んだフィルターを通して世界を観測している可能性を否定できない)。

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金魚→成神への意識的な被写体深度の移行

そういった不確定な世界に生きる中でも、ひなから成神への意識変化は間違いなく本物だったのだろうと思わせる、一連のシークエンス。こういった意図的なアイレベル*2の下げ方や丁寧なひなへの芝居付けなども、そういった想いを印象付けるようなフィルムのように映りました。

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PANダウンからの、口元の芝居がまた良い。

ここでKarmaの話に戻ります。歌詞としてはよくある献身やら自己犠牲やらの絡む、所謂「セカイ系」の物語。しかし、今回の挿話と結び付けるにあたって、やはり外せないのが「何もできない君だって 僕は好きなままいるよ <中略> 卵も割れなくていい いくつでも僕が割るよ」の一節でしょうか。メタファー的には、ここでいう卵の殻は世界そのもの、繊密なセル画によって不愛嬌に描かれていた散乱する卵の中身はひな自身(名前の由来は鳥の「雛」から?)、と個人的に捉えました。

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この辺りまで連想してまず最初に浮かんだのが、ヘルマン・ヘッセ 著、「デミアン」の有名な一節。

 「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。

  生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。

  鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」

(『デミアン高橋健二訳)

 このフレーズはいわゆる「自己変革論」、自分を囲う殻(自閉的な世界)を自ら破壊せよ、と説いている。それに対し「Karma」の歌詞では、「割れなくていい、僕が割るよ」というように、他者からの手助けという外的要因が提示されている。おまけに「何もできない君だって、僕は好きなままいるよ」というデミアン完全否定付きである。

 

もちろんどちらが正解とも言えないし、どういった思想がバイブルとなるかは人それぞれだけども、少なくとも成神が世界を犠牲にしてひなを救う、騎士道精神(ちょっと違うけど)的な話になるのかな、と勝手に予想。メタフィクション構造は好みだけど、どうも面白いと言い切れないのが正直なところ。遂に半分もきって、ぼちぼち大きく舵を切りだすところではないだろうか。

 

©VISUAL ARTS / Key / 「神様になった日」Project

*1:写真の焦点が合っているように見える被写体側の距離の範囲のこと。アニメでは主に、ピントの合わせ方を指す。

*2:人が立った状態での目のあたりの高さ。ここでは、カメラを構える位置(高さ)を指す

「神様になった日」5話―死後の世界に陶酔する人、引き戻す麻枝准

こんにちは。
神様になった日」5話、この辺りで確信めいてきましたが、どうやらストーリーラインの整備より、麻枝准(以下敬称略:だーまえ)氏が、言いたいことを作品に乗せるのを先決としているため、メタ目線で鑑賞すると楽しい作品かな、と思えて来ました。勿論今後の展開にもよりますが。「ヴァイオレット・エヴァーガーデンを思い出す」旨の感想をよく見かけましたが、個人的には「週刊ストーリーランド」の挿話の一つ、「天国からのビデオレター」に酷似しているなと感じたので、レンタルなりして鑑賞することをオススメしておきます。

 

週刊ストーリーランド ベストセレクション(1) [VHS]
 

 

さて、まず今回でビビっときたのが、オカルト&超常SFでも鉄板ではあるのですが「生者と死者のダイアローグ」という一連のシークエンス。生者と死者の交信なんて、これもうAngel Beats!ですね、分かりますってなっちゃう早漏っぷり。人によって何を感じるかはそれぞれなのでご愛嬌ということで(笑)。

閑話休題、まず「いや、死者はひなが演じた偶像ではないか」という点ですが、自分はこの点に対してあまり問題視していません。というのも、Angel Beats!での死の描写のライトさからも分かるように、だーまえの死生観というのは「死から何を生かすか」だと考えてる。結果的に伊座並家が「本物」のメッセージを受け取るわけだし、件の通話シーンもそのきっかけに過ぎないと思うのでアリかなと。

というわけで通話シーン、ここで重要なのが、ひなが「電話ボックス」で通話している点。神様になった日の世界は現実と仮想に乖離している、という考察をされている方をよく見かけていて個人的には肯定も否定もしていなかったのですが、このシーンで上記考察がより現実味を帯びた気がします。

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数年前に日本でリバイバル上映も行われた快作「マトリックス」、その際にTwitterにて行われた一般公募キャッチコピーの企画で、マトリックスの新キャッチコピーとして「電話ボックスまで逃げろ!」となりましたが、本作では現実世界と仮想世界を繋ぐパイプとして電話が用いられます。神様になった日5話における生者と死者の世界という二重構造に通ずるものもありますし、マトリックスでは「現実への帰還」の際に電話ボックスを利用するため、今作も似たような演出意図があったように思います。Angel Beats!は死後の世界が舞台の作品ですが、よく「Angel Beats!の続編は作らないのか」旨のファンコメントを見かけます。自分はABが好きだからこそ続編はあるべきではないと思うし、P.A.WORKS×Key新作発表のネット特番の際もこういったコメントで溢れる事は十分承知していたので、チャットはオフにしてました。今回の話は、そういった「死後の世界」に陶酔し切った人々に喝を入れる挿話に感じました。

ともすればそう解釈できる点を、フィルムの絵づくりからも感じました。Angel Beats!の世間一般でいう名シーンでは、そもそも基本的な舞台設定が屋外ですし、夕焼けをモチーフ的にした逆光の構図は、図ったかのようにエモーショナルな情感を映し出していました。ああいった切なさに振り切った演出は、言葉の綾ではありますが「死後の世界からの今生の別れ」を表しているように感じました。

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さり気なく対比になってるのがまた。


対して今作「神様になった日」5話では、舞台背景が家庭内であり、かつ日中の出来事だから日光がそのまま順光的にキャラクター達を照らす。伊座並母の「忘れて、処分してね」というセリフも象徴的で、そんなことは不可能であるとわかったうえで、死を意識するのでなく今ある生を享受して欲しいというメッセージに感じました。だからお墓参りのシーン挿入、またメッセージ処分について明示しなかったのも正しいと思う。

 

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伊座並自身の描かれ方も、凄くフィルムとしてよかった。今回の絵コンテは篠原俊哉さん。例えばこういった、伊座並の表情芝居を際立たせるような、動的なトラックアップ*1演出。篠原さんはCharlotte 12話「約束」の絵コンテも担当されていますが、この回でもラストカットが特に印象的で、乙坂の視点を意識した動的なPOV*2演出。空を映すだけならPANアップ*3でもよさそうな気がしたのですが、あえて動きを付随する。両回とも特別動きの多いシーンはなく、どちらかというと静的なフィルムだったんですよね。だからこそ一貫した静寂を崩すような演出は、キャラクターたちの心情に寄り添うような、非常に印象的なカメラワークに感じました。

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伊座並の電話シーンの、自然と手に力がこもったり不意に立ち上がる感情芝居、ラストシーンで肩呼吸をする芝居の繊細さなんかも、Angel Beats!ラストの音無の芝居なんかを思い出してセンチメンタルな気分になりました。

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そして終始伊座並が下座(左側)、成神が上座(右側)で描かれていた物語も、ラストの会話シーンで遂に想定線(イマジナリーライン)を逸脱する。二人の関係性は進展せずとも、伊座並の確かな変化が描かれていて良かったです。

 

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伊座並が上座側へ、変化の象徴

神様になった日ネット特番にて、石川由依さんに対して「好きなアニメで出演されてたのチェックしてました」と興奮気味にだーまえが仰られておりましたが、今回の話を見た限りだとやはりヴァイオレット・エヴァーガーデンのことだったのでしょう。ただ一見オマージュ的なフィルムでも、伝えたかったことは全く違うのではないか、というのが今回言いたかったことです。こういったメタフィクション的な構造を続けていくのだろうか、というのは一つの疑問ですが。とはいえ、かの幾原邦彦氏も、セーラームーン世代を夢から目覚めさせるために筆を執るように、自分が伝えたいことをある程度作品に乗せるのもありだとは思います。ともあれ今回の話は、ある種Angel Beats!のアンサーフィルムのように感じ、興味深いものでした。

 

©VisualArt's/Key ©VisualArt's/Key/Angel Beats! Project

©VisualArt's/Key/Charlotte Project ©VisualArt's/Key/「神様になった日」 Project

*1:被写体にカメラが近づく技法。T.Uとも

*2:ポイントオブビューの略。主観カメラ。一人称的カメラ。

*3:カメラを上に振る、縦移動。ティルトと同義。

「神様になった日」3話感想-麻枝准のメタ的セルフデプリケーション・ユーモア

こんにちは。

まず初手謝罪になるのですが、自分は麻枝准氏(以下敬称略:だーまえ)の作品に多く触れてきたわけではありません。本作のキャッチコピーでは「原点回帰」と銘打たれておりますが、あくまで自分にとってだーまえの泣きの原点は「CLANNAD」であり、彼が失敗作と語る作品が「Angel Beats!(以下AB)」「Charlotte」であるという前提で感想を展開していく旨、ご了承くださいませ。

 

本作「神様になった日」の第3話は、AB 3話やCharlotte 3話が物語の大きな転機だったにも関わらず、終始コメディ描写に徹していました。今後展開していく作品の転機における準備段階、日常の強調だとは思うのですが。
閑話休題、まず第3話で印象に残ったのがサブタイトル「天使が堕ちた日」。天使と聞くとやはりABを彷彿とさせますし、ABは天使という「神様の使い」を描いた作品で、本作はタイトルからしても「神様そのもの」を描いた作品ととれる。つまりこの第3話で、ABに対する何らかのアンチテーゼ(堕ちたという表現から)が提示されることが予想できます。

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それを踏まえた上で本編、ラーメン屋の再建記が描かれますが、そのラーメン屋の廃れた理由の一つとして「調理過程に過度なこだわりがある」という要素が挙げられました。ABはバンドやアクションシーンなど多彩なエンタメ性を含ませた作品でしたが、まさにこの旧ラーメンと重なります。神様になった日公式サイト「ゲームクリエイターがアニメに挑戦し続ける理由」にて、だーまえはこう綴ります。

『神様になった日』も、最初の原稿は上手く書くことができず、ひどい状況でした。周りの意見を聞いても、とても商業作品として通用する出来ではない、という辛辣なものでした。
それでも、可能性のようなものは感じてもらえたのか、「これは面白くなる」と言って良くしようとしてくれる方たちが現れました。
その人たちこそ、監督を筆頭としたアニメスタッフの皆さんです。

引用元:SPECIAL | TVアニメ「神様になった日」公式サイト

この話は、執拗にラーメンの調理過程にダメ出しして、不必要な拘りを捨てさせる陽太の描写と重なります。

そして情熱大陸のパロディを思わせる陽太へのインタビューシーン。「インフラが発展したことにより、ブランドのデフレが起きる」旨の台詞。作品の質の拮抗&量が増えていく中でのだーまえの葛藤を想起させる。このメッセージ性はフィルムの中でも象徴的に表れているように感じて、「堕天使?もうただのヤケクソだよね」という台詞に合わせて我武者羅に走る陽太をフォロー演出*1で映し続ける描写は、手前の金網の閉塞感も相まって、だーまえというクリエイターの葛藤や苦悩が如実に投影されているように感じてならない。日常シーンの「お祭り騒ぎ」感と対照的だから尚更ね。

 

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メタ的だーまえの化身。

個人的にAngel Beats!はかなり好きな作品でしたが、独特のテンポ感や死生観の描き方は視聴者を選ぶものだったのは間違いない。けど合う合わないは人それぞれだし、気負いすぎなんだよなぁ、といつもだーまえ作品を見ていると感じてしまう。

一連のラーメン屋再建記シークエンスを俯瞰していた新キャラ・鈴木君の「くだんねぇ」の一言も象徴的でしたが、こういった一種の自虐&アニメーション業界への警鐘を笑い話(コメディ)として落とし込むあたりも、彼の作家性が非常に前面に表れていて、個人的には好きな回でした。頑張れ、だーまえ。今後の展開を楽しみにしております。

 

©VISUAL ARTS / Key /「神様になった日」Project

*1:被写体の位置は固定、背景を動かす手法

2020/7-9月期終了アニメアンケート

アニメ調査室(仮)(@ani_chou)さんの企画。初参加。総括としてとても良い機会だと捉えているので、次回以降も積極的に参加していく所存です。

 

2020秋調査(2020/7-9月期、終了アニメ、42+3作品) 第58回

01,うまよん,x
02,天晴爛漫!,F
03,ジビエート,x
04,デカダンス,S
05,あひるの空,x

06,戦乙女の食卓,x
07,異常生物見聞録,x
08,バキ 大擂台賽編,x
09,アラド : 逆転の輪,x
10,彼女、お借りします,B

11,ド級編隊エグゼロス,F
12,放課後ていぼう日誌,A
13,魔王学院の不適合者,F
14,食戟のソーマ 豪ノ皿,x
15,ハクション大魔王2020,x

16,宇崎ちゃんは遊びたい!,F
17,とある科学の超電磁砲T,x
18,モンスター娘のお医者さん,x
19,ノー・ガンズ・ライフ 第2期,x
20,ピーター・グリルと賢者の時間,x

21,文豪とアルケミスト 審判ノ歯車,x
22,恋とプロデューサー EVOL×LOVE,x
23,テレビ野郎 ナナーナ 怪物クラーケンを追え!,x
24,やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完,A

25,THE GOD OF HIGH SCHOOL ゴッド・オブ・ハイスクール,C

26,ソードアート・オンライン アリシゼーション War of Underworld 最終章,x
27,ガンダムビルドダイバーズRe:RISE 2nd Season,x
28,ムヒョとロージーの魔法律相談事務所 第2期,x
29,Re:ゼロから始める異世界生活 2nd season,A
30,Lapis Re:LiGHTs (ラピスリライツ),x

31,フルーツバスケット 2nd season,x
32,富豪刑事 Balance:UNLIMITED,F
33,GETUP! GETLIVE! #げらげら,x
34,ポータウンのなかまたち,x
35,忍者コレクション,x

36,GO! GO! アトム,x
37,エッグカー,x
38,(特番) 巨人族の花嫁,D
39,(特番) オオカミさんは食べられたい,C
40,(地上波初放送) 無限の住人 IMMORTAL,F

41,(地上波初放送) 銀河英雄伝説 Die Neue These (邂逅 / 星乱),x
42,あの世のすべてはおばけぐみっ!,x

参考調査

t1,(参考調査) ULTRAMAN,B
t2,(参考調査) HERO MASK,x
t3,(参考調査) A.I.C.O. Incarnation,F

※Fは、多忙等の理由も込みで見切った作品で、評価ではありません。今後空き時間に見るかも

{寸評}

S

デカダンス

かなり粗削りな面もありましたが、メッセージ性に関しては一貫していて、真っ直ぐな作風が好みでした。保守派と革新派の対比を画の構成すら用いて表現する、立川氏の技量は素晴らしかった。
システムを再編していくラストも印象的で、システムにおける解放と束縛のバランスはSFひいては現代において永遠のテーマですが、矛盾をはらむため描写が難しい。本作はその辺の落としどころが巧かったです。詳しくは「The Stanry Parable」というフリーゲームをプレイしていただきたく(宣伝)。

A

放課後ていぼう日誌

陽渚の主体性の進歩を丁寧に描いた作劇でしたが、部員メンバーの雰囲気然り、変に説教臭くないのがまた良い。やっぱり部長が好きかなぁ。

やはり俺の青春ラブコメは間違っている。完

思い出補正込みなところはある。中学時代から見ていた作品だった故、最後を見届けることができた幸福感と、果たしてあれを最後としてよいのかという気持ちのジレンマ。

Re:ゼロから始める異世界生活 2nd season

単純にループ作劇が大好きなのもあるけど、構造に奥行きを出しつつ謎を開示したり隠したり、のバランスがいい。ところでレムちゃんはいつ頃お目覚めに。

B

彼女、お借りします

1話、12話は随一の出来映え。書きたいことは別記事に書き連ねたので、そちらを参照のほど。

karipan.hatenablog.com

 

ULTRAMAN

うーん、ウルトラマンに影響を受けたエヴァ、に影響を受けた作品って感じ。主人公を幼く描いて、親の理想と対比的に描くところとか。3DCGのアクション、モーションキャプチャ技術の進化を肌で感じて圧巻でしたし覚醒までの流れも良かったですが、掘り下げが浅い。続編に期待

C

THE GOD OF HIGH SCHOOL ゴッド・オブ・ハイスクール

物語として中身がすかすかすぎる、名作の継ぎはぎが名作にはならないことが、身をもって証明された。最後まで作画リソースが途切れることなく、戦闘シーンが描かれていた点には感心

オオカミさんは食べられたい

僧侶枠、そろそろ謎の光でいいと思う、隠すにしてもせめて。このヒロインのキャラデザイン、どっかのラブコメに逆輸入しませんか(提案)

D

巨人族の花嫁

ホモ要素は苦笑しか出ないおぞましさであったが、下手な異世界転生なろうより芯はあった。と勝手に感じてる。

{総評}

完走9作品。今期はとにかく、某ゲーム&配信者にハマってしまって切った作品が多くなってしまった。特に天晴爛漫や富豪刑事は気になっているため、時間の合間に見ると思う。デカダンス、自分の感情的にはSとAの間くらいで迷いましたが、S枠がないのはあれかな、ということでこの位置。コロナ延期の影響もあり続編系の布陣が強いクールでした。特に俺ガイルやリゼロは、感想クラスタ界隈に入り込む以前から見ていたこともあり、思い出補正込みとはいえ十分な満足度。
次クールも、気になる作品が多く楽しみです。

ポケモン×BUMP OF CHICKENのMVに見る、多層的な虚構性

こんにちは。
今週の記事はかのかりの雑感ブログだけかな、と思ってたんですけど、昨日のポケモンダイレクトを見ていてもたってもいられなくなったので、こうして文字に起こしております。言わずもがな、ポケモン×BUMP OF CHICKENのMV「GOTCHA!」についてです。

https://youtu.be/BoZ0Zwab6Oc

いやー、やっぱポケモンのコンテンツ力&キャラクターの魅力はバケモンですわ。絵コンテは「シュガーソングとビターステップ」等の松本理恵さん。舞台演劇を意識した視線誘導だとか、ダンスシーンだけでキャラクター性を雄弁に語るコンテを描くのが印象的な方でしたが、本MVでもその利点が存分に発揮されていたと思います。

まずは冒頭、名作「スタンド・バイ・ミー」を思わせる、線路を歩く四人の少年。ポケットモンスター赤・緑において主人公宅のテレビ画面でもオマージュを確認することができますが、即ち画面の中での出来事、「虚構」であることが印象づけられます。

 

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四人である点からもBUMP OF CHIKEN感凄いけど、違います(笑)

少年・少女(≒我々)は目覚めて、ジムリーダー達をバックに、ポケモンという一つのコンテンツの過去を振り返るように下座(左側)に向かって歩き出す。ここで印象的なのが、こちら側を元気づけるように和気あいあいとしたジムリーダー達なんですが、少年・少女を挟んでモニター越しなんですよね。「ゲーム・アニメの中においての人物」であることを印象付けると同時に、少年・少女が現時点では現実であるように描写されます。ここ大事。

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ゴーストタイプの可愛さ異常。



ここの一連のカットつなぎで特に印象的だったのが、少年の服に映る青空が、そのまま次のカットの背景となって、少女のカットへ移行。時・場所は不一致ですが、類似の被写体を用いてカット転換を試みる「マッチカット」手法。とても遊び心か感じられ、思わず面白いな、と感じました。この辺りは映画「パプリカ」のOPにふんだんに用いられている手法なので、要チェックです(パプリカみとけば大体の演出技法学べて便利すぎる)。

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少し飛ばして、歴代チャンピオン&主人公&ライバルがダイジェスト的に流れるシーン。流れるような躍動感と圧倒的画力、おそらくですが中村豊さんが原画を担当されたシーンでしょうか。ここが涙腺のウィークポイントであり、感動した場面でした。ゲームで体感した名場面が即座に頭の中でリフレインし、叙情的に感情が沸き上がる。キャラクターの表情に寄るカメラワークからカット転換するのですが、それぞれの表情が全く違うのが印象的で。特にBWの描写に感じたのですが、それぞれの場面における熱い感情が流れ込んでくるような、シリーズ毎の時の流れを否応にも実感させられるような、そんな至福のカットでした。

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「このおれさまが! せかいで いちばん! つよいって ことなんだよ!」


ここのダイジェストシーンでも、少年・少女のカットが繋ぎとして挟まりますが、ここでの画面構成も、虚構性を強調するようで象徴的。ガラスを隔てて描かれる少女、あくまでポケモンとは「フィクション」であり、私たちは「現実」を生きるわけで。この境界の存在を執拗に描くのには理由があって、そのあたりはまた本稿の終盤で、自分なりの解釈を。

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手前のガラスは、ガラルのスタジアムかな?

 


そしてラスト、個別に描かれていた少年・少女が遂に邂逅する。最近はネットワークの普及による通信プレイ幅の広がり、更にはポケモンGOのようなアクティブなコンテンツ等、「みんなで楽しむコンテンツ」を売りとしていますが、まさにそれを体現したかのような、メッセージ性の強いシーンのように感じられました。また、モニター越しに見守るかのような、博士たちの視点の描写が一瞬挟まるのも良い。現代の少年・少女の成長に少しでも携われたらいいな、という、開発側の母性のようなものを感じ取れました。

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博士視点。

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ウツギ博士笑う


そしてMVも終盤、少年・少女が歩く道こそが物語になる、と言わんばかりに冒頭「スタンド・バイ・ミー」のオマージュと重なる。と、ここで爆弾が放り込まれる。残すところ制作スタッフさんのクレジットロールのみか、と思ったところ、一人の人物がうとうととして見ているスクリーン、そう、本MVである。そこ(MV越しのMV)に当然と言わんばかりにクレジットロールが流れる。そうつまり、少年・少女の世界でさえ、我々からしたら「虚構」だったのだ。

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おそらく「夢」として描写されるワンパチ。

そもそも虚実の境界は矛盾している

しかしそもそも、虚実というのは曖昧なものである。アニメや映画を含めた様々な創作(嘘)が、世の中(現実)にあふれているように。ポケモンというコンテンツに白熱していた本MVの少年・少女も、映像の中の人物とはいえ、彼らが自分たち(コンテンツを楽しむ人)のメタファーであったことは明白。その事実を咀嚼したうえで見直してみると、例えばジムリーダーをバックに少年・少女が歩くシーン、ジムリーダーたちが「フィクション」、画面越しの我々が「現実」とすると、少年・少女は「半虚構」に介在しているといえる。まるでポケモンという世界観に没入しきっている、我々の象徴のように。

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なにこの分かりやすい絵。



また、例のマッチカット直前のシーン、ラストのうとうとさんも映っているのだが、半虚構であったことを踏まえると、まるで少年がフィルム(ポケモンの世界)の中に入っていくかのように描写されている*1

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ここですここ。



それを裏付けるのが、イーブイピカチュウのキャラクターデザイン。かなり特徴であり、まるでポケモンじゃないような。それもそのはず、ポケモンではないからだ。…とはいいすぎにしても、我々は決してポケモンそのものには触れられないのは事実なので、ポケモンというコンテンツそのものを意味した虚像だったのでは、と勝手に考えてます。

ポケモンは世界中から愛され、様々な人が「体感」するコンテンツになった。ポケモンから楽しさを得ている我々は、最早世界観に没入しているも同義だ、という素敵なメッセージビデオに感じました。

 
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*1:入る前は、うとうとさんと同じ世界、つまり現実