カリーパンの趣味備忘録

視覚から得る情報の雄弁さは計り知れない。

まごころのリビルド、旧劇のアンサーとしての受容―「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」感想

まず初めに、ネタバレ全開でお送りする点をご容赦ください。
正直感想というよりは断片的なメモ書きに近いので、読みづらかったら申し訳ない。あくまで他人の一解釈として理解に役立てていただけたら幸いです。

 


『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告・改2【公式】

 

 

まず映画の詳細が明らかになった際の第一感想は、「上映時間なげぇ」です。いや、正直に。ハルヒ消失を思い出すアニメーション映画としては特例的な尺、しかし自分はその事実をマイナス的に捉えたのではなく、寧ろ今まで自身が繰り広げてきた虚構劇に落とし前をつけるという、庵野監督の意志表明に感じ取れました。

 

そして見終えた今、第一の感想としては、「徹頭徹尾、『Air/まごごろを、君に(以下旧劇)』のアンサーフィルムだった」という印象です。当然、対比の意味で。
まず冒頭、圧縮された情報量によって生まれる密度で描かれる八号機の戦闘シークエンスは、否が応でもエヴァシリーズにおける終幕の始まりを意識させますが、改めて思うと、マリの「どこにいても必ず、迎えに行くから。」の台詞がラストまで引っ張られるとは思いもしなかったなぁ。

 

f:id:karipan:20210308195327j:image
引き続きアバンタイトルにて荒廃した街並みを歩くシンジ・レイ(仮)・アスカの三人、エヴァンゲリオンの中では度々象徴的に表される電車や線路といった「運命」のメタファー。旧エヴァンゲリオンで既に敷かれたストーリーライン(線路)を真っ二つに跨いで横断せんとする三人の姿は、終幕を痛感させるには十分すぎる描写だったように思います。

 

そして思わぬ人物・トウジの登場により、物語は「大きく形を変えた世界の中で、我武者羅に日常を堅持せんとする人々の営み」へとシフトする。「―せい」という観点(自慰、セックス等)から他者との隔たり・相克を浮き彫りにした旧劇と対をなすように、「―せい」の謳歌という観点から他者とのダイアローグを徹底的に描くシークエンス、ずっと続いてくれと思わざるを得なかった。モノローグの断続性で紡がれていた旧劇のリバウンドのように、会話だけで紡がれていくシンジの心の開き、レイのアイデンティティの形成。破とQ間の空白を埋めるというのは構成上の建前にすぎず、最大級のファンサービス、あるいは庵野監督自身の心の余白が埋められていく感覚だった。モノローグを脱して他者と目を合わせて向きあうことを学んだシンジ、だからこそレイの喪失を目の当たりにしても、逃げ出さずに受容する。そこに罪の重さに耐えられず逃げだす旧劇のシンジはいない、選択したレールで贖罪を背負う「大人」のシンジ。

 

旧劇と相克を成すテーマ性として、「母性」もふんだんに詰め込まれていたように思う。ヒカリの存在、子育ての一片を担うレイの姿は正しくそれを印象付けるものだったと思うし、そういったフィルムへの印象は、ミサト、あるいはミサトから見たシンジと加持リョウジへの思いの描きに伝播していく。寧ろこういった描きにこそ、20年以上もの間、ファンをコンテンツに縛り付けてしまった庵野監督なりのファンへの「母性」、あるいは贖罪につながってくるのではないだろうか。

 

そしてヴンダーだの三号機だの八号機だの十三号機だの、およそ読み手の理解ペースを一切考慮せず、それでもエンタメ性をふんだんに演出するエヴァ「らしさ」を痛感する相変わらずの戦闘シーンには頭が上がらない。そしてこの直後のシークエンス、ここが今作で一番好きだった。容赦なくゲンドウに向けて発砲するリツコ、というこれまた旧劇の対比から始まるこのシーンは、「シンジがエヴァに乗るか乗らないか」という今シリーズでもっとも見覚えのある内輪揉めに移行する。

f:id:karipan:20210308195948j:plain

旧劇「Air/まごころを、君に」より


シンジに重責を押し付けた責任として銃撃を庇うミサト、状況は違えどここも旧劇と対比のシークエンス。「おっ、大人のキス(笑)か?と一瞬でも思ってしまった俺を許してほしい。そう、今作は抱擁だった。旧劇にて、キスをすることで家族関係という「保護者」の立場から逃げ出したミサトは、しかし今作では、子供たちへの贖罪の在り方として、「家族」として抱擁する。ここでのミサトの矜持の描きは、筆舌に尽くしがたいほどの感情が込み上げました。ここまでクリエイターの心境と物語は、時代によって密接にリンクして変容していくんだな、という感動。叶うなら、アスカも抱きしめてほしかった。

 

かくして始動するインパクト、「アナザー」「現実」「虚構」というワードが頻出するシンジとゲンドウの会話、或いは可視化された人類補完計画の倒壊、表層的には旧劇のメタフィクション脱構築の構造をなぞりながら、しかし本質は全く違う。なぜなら碇ゲンドウは、世界の形を変えてまでも喪失した他者に縋る、権力を持ってしまった場合の天気の子・帆高(権力を持った子供)であるのに対し、シンジは既に「喪失すら自身の糧として受容できる」大人だからである。だからこそ対話を恐れた旧劇と違い、今作のシンジはA.T.フィールド「心の壁」を、補完なしでももろともしない。父が外界との断絶ガジェットとして用いていた音楽プレイヤーを、持ち主へ変換することができる。なぜならシンジは、もう音楽プレイヤーによるまやかしの断絶など要らないから。

 

かくしてキャラクター各々を束縛する役割や過去を、虚構の外側から大人のシンジ≒庵野監督が諭して元の居場所へ返していく。言うまでもないが、このシークエンスがハリボテの中で行われているのは、現実と虚構を繋ぐパイプとしての描き。まるで、自身が長年の間キャラクターたちをフィクションに束縛したことへの贖罪のように。必然返還を終えたシンジは1人になるも、ここでマリが訪れる。碇シンジ庵野監督のキャラクター像の投影であるとしたら、TV版&旧劇での鬱屈としたシンジを見ているだけで当時の庵野監督の複雑な心境が伺えるが、旧劇〜新劇場版公開開始までの間に結婚という人生においての大きなプロセスを得たことで、彼の中で何かが大きく変わったのは確かだろう。思えば、新劇場版においてテコ入れされたマリというキャラクターは、タイミング的にもまさに庵野監督の妻・安野モヨコそのものではなかったか。劇場パンフレットを開いてまず目についたのが

「そして公私に渡り作品と自分を支え続けてくれた妻に感謝致します。」―庵野秀明

の一文。物語の立役者を担いつつも天真爛漫な彼女の立ち振る舞いは、まさに旧劇制作時の彼を変える妻の投影ではないのか。と、ここで思い出されるのが更に旧劇劇中での庵野監督からのメッセージの一文。

「導いてくれたスタッフ、キャスト、友人、そして5人の女性に心から感謝いたします。」―庵野秀明

「5人の女性」が誰なのか、は全く重要ではなく、ここで大事なのは、様々な女性との交流で鬱屈していた実体験の投影が旧劇であるならば、「一人の女性」に導かれたのが今作「シン・エヴァンゲリオン劇場版」ではないのか。

 

ここで物語は終幕、手を取り合うマリとシンジは、ホームの階段を駆け上がり駅の外へと脱したところで実写パートへ、現実へ帰還する。

f:id:karipan:20210308200240j:image

電車から線路、線路から電車という循環したエヴァンゲリオンの物語から、駅の外という現実に帰還する意味。「オタクは現実に帰りなさい」というメッセージ性も一見旧劇と同じ帰着点に見えるも、やはり本質は全く違う。現実に帰還したところで、やはり電車に乗ったりなどふとした時にまたこの物語を思い出すかもしれない。そんな時に、そっと夢を見せてあげる、寄り添える。それがアニメとしての在り方ではないのか。だからこそ、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は「𝄇」という反復記号によって循環される。現実を頑張りなさい、でもいつだってアニメというフィルムに残された創作は見返すことが出来るよ。そういった庵野監督によるメッセージ、ひいては20年近くの間束縛した、大人になったファンを送り出す賛美歌としての彼なりの贖罪、まごころを込めた母性だったように思う。

 

他者と直接的に交わる、或いは傷つけ合うことも生、そう切り出した旧劇も間違いではない。しかしその延長線上にある再三のさよならの物語で庵野監督はファンに告げる、「まごころを、君に」と。

というわけでシン・エヴァンゲリオン劇場版感想でした。もう少し短めにするつもりが、思いの外熱が入ってしまった(笑)

自分なんかは後から履修した年端もいかぬ若輩者ですが、当時から熱心に追い続けたファンにとっては計り知れない喪失感だっただろう、そんなフィルムに思えた。だからこそ、宇多田ヒカルは今作の曲造形の中で、歌詞の中の「喪失」の韻を外したのだろう。敢えて。

ファンの喪失感、キャラクターたちの喪失感、しかしその喪失も背負っていくという大人の意志を示したシンジと庵野監督。しかし人の記憶にある限り永遠に循環するのが創作でありアニメ、だからこそ新劇場版というリビルドの始まりである「Beautiful World」でフィルムを締めるのだ。

f:id:karipan:20210308200159j:plain

社会的地位という固定観念からの脱獄―『Dr.STONE 第2期』第6話「PRISON BREAK」感想

石神村の科学王国という小さい国家的な社会のなかで、「科学使い」という肩書を与えられているクロム。即ちそれは千空と同じものであるが、寧ろこれまでの物語を見るに、クロムが同じ科学使いの千空より優れている点は、他者から得た経験値を積極的に自身のイマジネーションに取り入れようとする、柔軟な思考プロセスにあると言える。今挿話はクロムという、いち科学使いの矜持に焦点を当てつつ、囚われの身となることで失いつつあった柔軟な思考を取り戻す、即ち科学使いという「固定観念」からの脱却に重きを置いた回だったように思いました。

f:id:karipan:20210219183535j:image

 

今挿話はまず、「上井陽」という人物にフォーカスする描きから始まります。彼の立ち振る舞いはとても本能的、元警官時代の回想からも、寧ろ理性ではなく感情的に人を裁くような人間性だったことが伺えます。そんな本能的に生きる彼ですが、身近な異性に振り向いてもらいたいという「性」が絡む欲求の裏で、「そのためには司の側近という社会的地位を得なければならない」という理性が本能の裏側に備わっていたと言えます。即ち彼もクロムと同じで、社会的地位の大切さは知っていても、そういった肩書きとしての固定観念に囚われている人間として描かれているのです。

 


f:id:karipan:20210219183734j:image

f:id:karipan:20210219183738j:image

だからこそ、「シンプルでいいわ、新世界」という台詞も、格差社会の明快さに慢心する彼の主体性の欠如を浮き彫りにした秀逸なものと言えるし、格子越しに視線を交わす二人の構図も、クロムが状況的に囚われていると同時に、陽もまた固定観念に囚われていることを表しているように思えました。

 

かくして外部から投げ入れられた電池(羽京?)で発火を試みるも失敗、陽率いる監視軍団に見つかってしまうわけですが、ここでクロムは気づいたはず。感情を忠実に発露するだけの陽の幼さに。科学は自己顕示という感情の発露のために用いるのではなく、直感とイマジネーションの連鎖が生む理性的な事柄であるからこそ、優位性を錯覚させるペテンの演技に痺れる。

f:id:karipan:20210219183248j:image

そして遂に脱獄決行シークエンスへ。千空から得た現代化学、ゲンから得たペテンの使い方と、現代人から受けたインスパイアを自身のインスピレーションへと昇華しきったクロムの脱獄劇は痛快なものでしたが、寧ろそれより心を打たれたのは、ルリを救いたい気持ち・未知を既知に変容させていく楽しさ(採集)が、そのまま彼の経験値として活かされていた点にあります。

 

「科学使い」、千空と同じ肩書ながら、寧ろ理詰めな固定観念から脱却することで改めて獲得できた「クロム」唯一無二のアイデンティティ
序列が生じている司帝国と、個々の技能・アイデンティティを何より重んじることで対等性が生じる科学王国。クロムは立派な、かけがえのない科学王国の一員である。

 

©米スタジオ・Boichi集英社Dr.STONE製作委員会

イナズマイレブン 第10話「帝国のスパイ!」感想 ― 個の確立を描くジュナイブル

こんにちは。
さて期末レポートも一段落、バイトも終わって土日に溜まったアニメでも見るか!と意気込んでいたのに、イナズマイレブンをぶっ通しで見返してしまうという体たらく。なんなんだコイツは(俺)。

というのも最近、有名配信者・加藤純一さんにハマっておりまして、そんな彼が熱狂的なファンからのプッシュで手を出した「イナズマイレブン」のゲーム配信。思い出補正でとても懐かしく感じたと同時に、「そういえば無印は当時途中からの視聴だったな」と思い出して急遽見返しているわけであります。率直な感想として、「めちゃくちゃ面白い」。夏美ちゃんってこんなに可愛かったっけ?とか、必殺技バンクのT.B演出等による迫力感の良さだとか、やっぱり当時と違う視点・発見もあるわけで。てか前置き長いな、とっとと本題。

例えば第8話「恐怖のサッカーサイボーグ!」では、雷門との試合を通して、狭量の狭い大人の抑圧を振り切ってサッカーの楽しさを知る御影専農という展開に痺れたし、第9話「目金、立つ!」では、自分と同じく「何か(マグカフィン)」に没頭できる友人を絶対に否定しない円堂の在り方、個々の持つアイデンティティの尊重という観点において非常に胸を打たれる描写でした。

f:id:karipan:20210202012545j:plain

第8話より。美女マネージャーは幻想です


寧ろそういった個の尊重・確立を描いた挿話が前座だったのではないかと思うほど印象的だったのが、第10話「帝国のスパイ!」。練習シーンのさなか、逆三角形の形状をしたナイター設備と重なる土門のカット、後に挿入されるサブタイトル画面までの間の取り方といい、異彩を放っていたように感じました。

f:id:karipan:20210202012911j:plain
f:id:karipan:20210202012930j:plain

逆三角形というモチーフ性は「フラッグ」とも呼ばれますが、自己主張・自己探求といった意味合いも込められており、まさしく土門が自分を見つめ直す今回の挿話において、非常に雄弁な演出だったといえます。帝国側の人間として雷門のスパイを遂行しつつも、円堂のパーソナリティに惹かれつつある土門。そういった罪悪感から生じる逡巡が、ガラス越しに映されるショットや赤信号に気づかない描写などによって構成された一連のシークエンスによって表されていく。

 

f:id:karipan:20210202013826j:plain

そして次の日、正の方向(校舎)へ歩く生徒たちに交わるように裏方向へ歩いていく土門。スパイとしての目的を遂行するための必然の行動とも言えますが、わざわざカメラ前を通る一般通過生徒を描写する意味合いを強く感じました。そしてここで、帝国学園・鬼道への密告。

f:id:karipan:20210202013853j:plain

しかしそれは以前までとは違い帝国への異議を申し立てるものであり、そういった鬼道と土門を光影で分け隔てるシークエンス構図。しかしここでイナズマイレブンの一筋縄ではいかないところは、鬼道でさえもまた、自己を模索する人物として描かれている点にある。雷門のマネージャーと兄妹関係であることを開示してから、勝利に固執するあまり内面を捉えようとしない親との食事シーン。これは個人的な印象なんですが、少年ジャンプでいうところの努力:勝利の比率が9:1くらいなんですよね。勝利に固執し社会の規範を逸脱する影山総帥、あくまで努力の過程を重視する雷門イレブンが徹底的に対比で描かれてる。

閑話休題、元々は身内だったもう一人のスパイを切ることで雷門に貢献することを代償に、自身もスパイであるという正体(自己)が開示されてしまう土門。本心と欺瞞による葛藤や罪悪感、何より「周りからの非難」を恐れて逃げ出してしまう描写は、等身大の子供として描写される。そしてここで挿入される回想シーン。故人・一之瀬*1は卓越したサッカーセンスの持ち主であって、寧ろ土門にとって追いつけない選手として描写される。だからこそ感じていた疎外感、近くで埋めてくれる存在がいなかった。ここで第9話で描写された円堂のパーソナリティが活きてくる、即ち彼こそ「自身のアイデンティティ」を承認してくれる存在。

f:id:karipan:20210202013637g:plain

だからこそ、回想とオーバーラップで重なる過去(一之瀬の背中)と現在(隣の円堂)の土門の描写に、どうしようもなく心を打たれてしまいました。

見てるしかなかった、一之瀬の背中を、追いかけても追いかけても追いつけない。
 でも、円堂は違うんだよ、隣を走ってるんだ。あいつとなら、いつまでも走ってられそうな気がする…

脚本・演出に仮託された熱量。余韻として、対等に描かれる円堂・土門のサッカー描写の良さ。一之瀬という目標から得る「自己承認」と、円堂という「他己承認」を得た土門。紛れもなく、雷門イレブンの一角である。

 

というわけでイナイレの挿話単体に焦点を当てた感想でした。今18話くらいまで見た。
今思えば主人公がキーパーとか渋すぎだろって感じなんですが、常にフィールドの後ろから背中を見ているからこそわかる他者の内面への寄り添い方なのかなとも。とにかくフットボールフロンティア編は、大人と子供の領分のスイッチングが激しく、渋くも熱い非常に好みな本なんですが、調べてみたら2期に入る直前まではゴールデンタイム放送ではなかったらしい、どおりで。
今期の装甲娘戦機もそうだけど、ダンボール戦機といい、レベルファイブ黄金期が懐かしすぎてお涙止まんねーわ。
再びレベルファイブが日の目を見る世界戦はどこですか?

 

©LEVEL-5 Inc.

*1:今挿話時点。

2021冬アニメ雑感①

今期はフィルム作りの良い作品が多い。Dr.STONEの原作購入我慢してよかった、無限に泣いてる。ゆるキャン△Dr.STONEひぐらし業とかいう感情ジェットコースター、中毒性が高すぎる。色々感情が溜まってきたので、適当に発散していきます。

 

まずは「怪物事変」。PV時点ではあまり気になっていなかったんですけど、いざ見てみたらというパターンでした。主人公の泥田坊→夏羽へのイニシエーションが描かれていた初回、これまで周りの悪意を集中的に受け続けてきた彼にとって、隠神と出会ったことにより初めて得ることができた、他者からの「承認」から込み上げる感情は計り知れないものだったと思います。

f:id:karipan:20210122193227j:plain
f:id:karipan:20210122193335g:plain

基本的に無表情な夏羽ですが、だからこそ際立つこういった撫でられた頭を自身の手で反芻する仕草の切り取り。また、親の愛情に気づいた際に僅かに順光の照度が上がる描写。ここは髪のなびきもよいのですが、言ってしまえばまさに「世界が広がった瞬間」だよなと。
続いて2話、無痛による感覚麻痺、メタ的に「苦痛」を吐き出せない夏羽の描かれ方。この辺りは空の境界 痛覚残留の浅上藤乃Fate/stay night Heaven's Feelの間桐桜を何となく彷彿とさせました。

f:id:karipan:20210122193731g:plain

こういった彼の性格は夏羽の芝居付けにも表れていて、1話で隠神に「親に会いたいか」と言われたときの、こういった絶妙な口元の歪みとか。自身の感情を押し殺すプロセスの描き。このシーンを踏まえた上での2話でのイマジナリーラインの越え方が秀逸で、窓ガラスに映る隠神が下手(左側)・夏羽が上手(右側)に映ることで「これから1話のラストシーンのアンサーを描きます」と読み手に伝えてからの、イマジナリーラインの逸脱(左右反転)。

f:id:karipan:20210122195428j:plain
f:id:karipan:20210122195453j:plain
1話ラスト→2話ラスト。隠神が下手、夏羽が上手

f:id:karipan:20210122195513j:plain

左右反転、イマジナリーラインの逸脱。

こういった夏羽の自己意識の芽生えの描き方に胸を打たれました。今後も目が離せない一作です。

 

お次は「Dr.STONE 2期」。10GAUGE ✕ 依田伸隆による黄金タッグOPについては既にTwitterで触れたので、そちらを参照のほど。

本題は飛んで、2話ラスト。

f:id:karipan:20210122200023j:plain

卓越した知力で文明を駆け上がる、即ち未来を見つめ続ける千空にとって、寧ろ旧友との再会を介して「一瞬過去に思い馳せる」というプロセスは、彼にどれだけ叙情的な感情を叩きつけたのかは想像してもしきれないものがありますが、そういった筆舌に尽くしがたい感情を切り取った、アオリ+順光によって映し出される横顔に思わず目頭が熱くなりました。そしてここで挿入されるED楽曲のはてな-「声?」も、「電話通信」を意識したであろうイントロのノイズは、世界観の抽出としては十分すぎる演出でした。

f:id:karipan:20210122200848j:plain
f:id:karipan:20210122200911j:plain


EDアニメーションは太陽巧芸社制作。人類の進化・千空の成長とともに発展していく世界。そして石化にとって、千空は立ち止まり、文明は崩壊する。こういったあらすじ的なストーリーテリングが絵によってものの2,30秒でなされていくわけですが、楽曲のサビにて石化が解けて再び千空が走りだす瞬間、こういったアオリの構図で「先の景色を見せない」演出に、どうしようもなく心を動かされました。

f:id:karipan:20210122200929j:plain

横から映していたカメラが千空に追いつかなくなって、後ろから追いかけるように。そもそも不透明な未来を開拓していく物語であって、常に試行錯誤の連続。そういった人生讃歌を歌ったような「生きて 生きて 彷徨いながら足掻き探して まだ見ぬ先へ」という歌詞も最高で、トライ&エラーとも言うように、失敗はあっただろうけど決して逆行することはしなかった千空。だからこそただひたすらに、上手方向に走る千空をフォローし続けるカメラワークの熱量が半端ではない。

f:id:karipan:20210122200950j:plain


瞬く間に過ぎ去る時をただひたすらに駆ける描写、視覚的な時間の伸縮から生み出される叙情にとにかく感動の連続でした。


こういった演出は他作でもあって、例えば「ワンダーエッグ・プライオリティ」OPとか。

          アニメーター・ヨツべ氏Twitterより引用

写実的な背景に配置された虚構的なキャラクター達。バイオレンスな本編と相反するような日常描写の切り取りに寧ろ「人生」について深く考えさせられますが、こういったタイムラプス*1によって意識的に濃縮させられた時間の経過も、人生という余白の演出として十分すぎるカットだったように思います。丁度数時間前に視聴した「ひぐらしのなくころに業」にも、似たような演出意図でタイムラプスが使われていた点にも驚きました。

f:id:karipan:20210122201305g:plain

ひぐらしのなく頃に猫騙し編 其の参より。


あとタイムラプスとは全く異なってきますが、「時間の伸縮」という観点でいうと、先日YouTubeにて公開された「ずっと真夜中でいいのに。『暗く黒く』MV」。


ずっと真夜中でいいのに。『暗く黒く』MV(ZUTOMAYO - DARKEN)

勿論全体通して見てほしいのですが自分が一番気になった点として、動画の2:34~あたり、黒コマの挿入による間の撮り方も印象的だった、定点撮影カット。同じオブジェクトで違和感なくカットを連結しつつ、色合いだけで時の流れを演出する。主線を拾わないルックといい、今までにない革新的なアニメーションだったように思う。

 

時間という相対的な概念を工夫して切り取ることで生み出される、読み手の感情誘導、感情の昂ぶり。今期のアニメーションも目が離せなさそうです。

*1:数秒、数分に1コマずつ撮影したものを繋げて再生することで、早送りコマ撮り動画のようにする手法。有名どころだと、「君の名は。前前前世挿入シーン等。

2020/10-12月期終了アニメアンケート

アニメ調査室(仮)さんの企画参加&2020年秋アニメ総括となってます。
気楽に読んでいただければ幸いです。

 

目次

 

寸評

S評価
無能なナナ

f:id:karipan:20210121214309j:plain

©るーすぼーい・古屋庵SQUARE ENIX・「無能なナナ」製作委員会

初回の叙述トリックはあくまで作劇上の推進力に過ぎず、倒叙ミステリ軸で描かれる奇想天外な意外性は全くこちらの関心を衰えさせることなく、あわよくばミステリ作劇で「死」を日常とすることで、終盤の叙情的なフィルムへの反転への布石とする。画作りは最低限の情報投影、終始「読み手を楽しませる・驚かせる工夫」がプロット・構成に組み込まれていた。これぞエンタメよ。

 

・体操ザムライ

f:id:karipan:20210121214907j:plain

©「体操ザムライ」製作委員会

やっぱり少年スポーツ漫画に慣れすぎると、麻痺してくる選手生命の終着点。
今作はそんな「引き際に葛藤するプロ」の描写を明瞭なロジックでリアルに描きつつ、フィクションは虚構と割り切って、ポップなキャラクター造形に委ねる。特にレオ、玲ちゃん、バンダナ王子辺りのリアリティラインの塩梅は素晴らしい。BBはちょっとライン引き上げすぎかとも思ったが(笑)。ともあれそんなリアルと虚構の対比がくしくも作品の熱量とリンクする様は痛快。短尺で描くべき点をしっかり抑え切る構成力にも脱帽。オリジナル作品でこれができちゃう手腕よ。

 

・アクダマドライブ

f:id:karipan:20210121214815j:plain

©ぴえろ・TookyoGames/アクダマドライブ製作委員会

既存のクライムサスペンスフィルムをオマージュしつつ、独自のサイバーパンクな世界観に落とし込む、という外連味・やりたい放題感が最高。主人公を一般人に位置付けたのも、普遍的な主観を入り口にして、より外連味を際立たせるためだろう、巧い。そういったカオスの中でもキャラクターの掘り下げの抜かりなさには頭が上がらないが、そういった個々の意志を「アクダマ」と名付けたのも、ダンガンロンパの「コトダマ」だよなっていう。ダンガンロンパファンとして、素晴らしいリフレインフィルムを堪能させていただいた気分。

 

A評価
憂国のモリアーティ

f:id:karipan:20210121215041j:plain

©竹内良輔・三好 輝/集英社憂国のモリアーティ製作委員会

プロット的にはこの上ない前哨戦なわけですが、前座としては十分すぎるほどの面白さでした。強いて言えば、ある程度必要な「主人公の善の側面」として身分制度への不満が描かれていたが、大胆にフラットにするのか否か、その塩梅を知りたいな。結局カーストの有無はどちらにもメリット・デメリットがあるわけで、現時点ではモリアーティサイドの着地点が平行線。

関連記事
karipan.hatenablog.com

 

 

B評価
・神様になった日

f:id:karipan:20210121215239j:plain

©VISUAL ARTS / Key / 「神様になった日」Project

セルフオマージュに満ちた日常描写を、崩壊した世界の後で追体験した意味。
奇跡を否定した世界をひなと陽太に歩ませる、っていうストーリーテリングもそういうことだよなっていう。
これまで「奇跡」というデウスエクスマキナによって疑似的に救済してきたオタクたちに現実を見せる。個人的に「従来のファンに刺さらなくてもいい」という捨て身の作劇に思えた、奇跡のない世界だって個々の幸せは確かにある、だーまえの描きたいことは確かに伝わった。
とはいえ構成配分やキャラクター毎の行動理念の掘り方には難あり、個人的に高評価は下せないが、好みの作品ではあった。製作体制をしっかり整えて(特に監督チョイス)のだーまえ再戦待ってる。

関連記事(主にセルフオマージュの点に触れてます)

・ 「神様になった日」3話感想-麻枝准のメタ的セルフデプリケーション・ユーモア - カリーパンの趣味備忘録 (hatenablog.com) 

「神様になった日」5話―死後の世界に陶酔する人、引き戻す麻枝准 - カリーパンの趣味備忘録 (hatenablog.com)

「神様になった日」 7話感想―卵の殻(世界)、内から割るか?外から割るか? - カリーパンの趣味備忘録 (hatenablog.com)

・魔女の旅々

f:id:karipan:20210121215345j:plain

©白石定規・SBクリエイティブ/魔女の旅々製作委員会

ディテールは好みの部分も多いが、教訓臭さが癪に障る点もチラホラ。
挿話ごとに印象・評価がくっきり分かれてしまう構成もネック。
とはいえ撮影処理へのこだわりや、多彩に見えて一貫した作劇の方向性は高評価。

 関連記事

karipan.hatenablog.com

 

トニカクカワイイ

f:id:karipan:20210121215500j:plain

©畑健二郎小学館トニカクカワイイ製作委員会

書きたいことは関連記事に書いたのでそちらを参照のこと。
だら見するのには丁度良かったし、結構ドキッとする画作りもあったり。始発点が結婚から始まるのは逃げ恥と構造が似てるが、寧ろ類似点はそこだけで男作者と女作者のラブコメの描き方として比較すると面白い。

関連記事
karipan.hatenablog.com

 

・GREAT PRETENDER

f:id:karipan:20210121215714j:plain

逆算され尽くされたプロットを、ポップで虚構的なキャラで彩る。構造は全く違えど、作劇手法は体操ザムライと似通っていた気もする。
視野を広げることで得られる救済もある。ドラマ畑の方らしい整った脚本は感心でしたが、割かし無難に着地してなんか盛り上がりに欠けていたような。放送する予定の深夜アニメを先にサブスク配信で一挙配信するの、やめません?(切実)
総じてオリジナルアニメのよさを活かしきれていない作品にも感じた。BNA思い出した

 

 D評価
・100万の命の上に俺は立っている

初回の、どこ向けの需要が分からない読み手への侮辱としかとれない演出。豪速納品から紡がれる画作りの稚拙さ。どちらも見るに堪えなかったが、物語としては案外見れるレベルだった。
カハベルさんのキャラ立ちが特に印象的で、そんな良キャラが異世界側の人間だったのも、やっぱり異世界更生プログラムみたいなことを描きたかったのかな、と。分割2クール目は過密スケジュールじゃなかったら見るかも。

 

総評

今期スケジュールが過密すぎる。いいことでもあるのですが。総括も遅れて気づけばこんな時期。

まず切った作品についてちょろっと。まえせつは言わずもがな。くまクマ熊ベアーも見るのが苦痛と気づいた時には切ってました。安達としまむらとアサルトリリィ、この辺りも作品としては非常によくできていると感じたのですが、如何せん自分に合わなかった。逆に言えば、やっぱり自分はNL作品の方が好きなんだな、と改めて気づかせてくれた作品でもあった。ここまで言っておいて何を言い出すんだという感じなんですが、虹ヶ咲は皆さんの感想を読んで自分に合ってそうだと感じたので、近々見ようかなといった次第。

ここから本題、今期は総じて「普段アニメを描かない」ライターの方々の活躍が良くも悪くも目立っていたかな、という印象。ゲームライターは小高和剛(アクダマドライブ)、るーすぼーい(無能なナナ)、麻枝准(神様になった日)。ラノベライターは長月達平(戦翼のシグルドリーヴァ)。ドラマ脚本家は古沢良太(GREAT PRETENDER)。

しかしアクダマドライブはあくまで原案、無能なナナは漫画原作にとどまっているわけで、アニメ作品そのものへの関与度は低めであると言える。基本的にはアニメ畑のクリエイターに委ねる形。であるにも拘らず、原案・原作者が本来持ち得る作家性を保持しつつ、アニメーション作品として落とし込まれている点は痛快でした。逆に言えば原作・脚本という比重を背負っただーまえの神様になった日は、やはりどこかプロット構成として稚拙な部分が見え隠れしていた。
戦翼のシグルドリーヴァは7話辺りで断念したため自分なりの正当な評価は下しづらいですが、シリーズ構成・脚本という大事なセクションを普段アニメを描いていない人間に委ねるのは無理もあったかなと。特に今作に至っては、長月氏本人がTwitterで実況説明していましたからね(笑)。後からSNSで設定補強しなあかん作劇を作るな、という話。だから最近のラノベ作家が放送中にSNSで実況する風潮が好きになれない。

話が逸れましたが、他方クリエイターがアニメとどれほど直接的・間接的に携わればよいのか、について改めて考えさせられるクールでした。アニメ畑の人間だけでつくられたオリジナルアニメの体操ザムライがダークホースとなっていた点も、そういった観点からすると印象的でした。

おわり

 

アンケート回答

※F評価は視聴を断念した作品です。必ずしも最低評価というわけではありません。

2021冬調査(2020/10-12月期、終了アニメ、56+1作品) 第59回

01,まえせつ!,F
02,無能なナナ,S
03,魔女の旅々,B
04,ぐらぶるっ!,x
05,ギャルと恐竜,x

06,体操ザムライ,S
07,まるまるマヌル,x
08,安達としまむら,F
09,神様になった日,B
10,アクダマドライブ,S

11,トニカクカワイイ,B
12,くまクマ熊ベアー,F
13,魔王城でおやすみ,x
14,神達に拾われた男,x
15,レヱル・ロマネスク,x

16,憂国のモリアーティ,A
17,土下座で頼んでみた,F
18,炎炎ノ消防隊 弐ノ章,F
19,兄に付ける薬はない! 4,x
20,戦翼のシグルドリーヴァ,F

21,ゴールデンカムイ 第三期,x
22,おちこぼれフルーツタルト,x
23,池袋ウエストゲートパーク,F
24,別冊オリンピア・キュクロス,x
25,メジャーセカンド 第2シリーズ,x

26,かえるのピクルス きもちのいろ,x
27,100万の命の上に俺は立っている,D
28,エタニティ 深夜の濡恋ちゃんねる,x
29,いわかける! Sport Climbing Girls,x
30,秘密結社 鷹の爪 ゴールデン・スペル,x

31,もっと! まじめにふまじめ かいけつゾロリ,x
32,カードファイト!! ヴァンガード外伝 イフ if,x
33,シルバニアファミリー ミニストーリー ピオニー,x
34,ヒプノシスマイク Division Rap Battle Rhyme Anima,x
35,ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうかIII,F

36,キミと僕の最後の戦場、あるいは世界が始まる聖戦,F
37,ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会,x
38,ストライクウィッチーズ ROAD to BERLIN,x
39,ハイキュー!! TO THE TOP 第2クール,x
40,アイドリッシュセブン Second BEAT!,x

41,BanG Dream! ガルパ☆ピコ 大盛り,x
42,A3! SEASON AUTUMN & WINTER,x
43,魔法科高校の劣等生 来訪者編,x
44,ご注文はうさぎですか? BLOOM,x
45,どうしても干支にはいりたい2,x

46,ツキウタ。 THE ANIMATION2,x
47,禍つヴァールハイト ZUERST,x
48,One Room サードシーズン,x
49,アサルトリリィ BOUQUET,F
50,ゾイドワイルド ZERO,x

51,NOBLESSE ノブレス,x
52,GREAT PRETENDER,B
53,それだけがネック,F
54,(全13話) 忍者コレクション,x
55,(特番 8話) 大人にゃ恋の仕方がわからねぇ!,F

56,耐え子の日常 (2期),x

参考調査

t1,(参考調査) HERO MASK Part2,x

「ホリミヤ」1話&OP演出感想―四角形テリトリー

ホリミヤ」1話アバン。

f:id:karipan:20210111170039j:plain

f:id:karipan:20210111165811g:plain

髪を横流しする堀の芝居付けの良さに見惚れる間もなくすぐさま次のカットへ、微かなカメラのスライド&キャラクターの瞳を介するカット転換による視線誘導。キャラクターたちの芝居は生活感に溢れて自然でしたが、こうして意識的に演出されたキャラクター毎の感情ベクトルの差異の表現はせわしなく、何かしらの意味合いを感じずにはいられませんでした。

f:id:karipan:20210111170515g:plain

例えばその後、宮村とすれ違う直前の、こういったカットとか。すれ違うとはまさにベクトルの向きが衝突するという意味合いと同義ですが、町を行きかう人々の方向性の意識づけ、背景のスライドに仮託された物語が動く「予感」。余すことなくカットを切り取りだしたらキリがないのですが、とにかく方向性を際立たせるカットの数々は、とても面白いコンテの切り方だと感じました。

 

そしてここでOP。待ってました、石浜真史。相変わらずの影へのモチーフ性の持たせ方、オサレなスタッフクレジットの置き方、オーバーラップ*1で印象的なカットを小出しにする演出などは、彼のコンテの特色を否応なしに表していました。

f:id:karipan:20210111163709g:plain

コマ割り構図のような四角形の強調、閉塞感を記号的に表したような箱→窓→…というマッチカット*2演出も秀逸。そしてここでも描かれる方向性、というより逡巡する個々の思案をメタファー的に表したような、「回転」の演出。背景と違うスピードで、回り込むように落ちていく宮村の立体感。ここ以外にも数か所にみられる、手前のセルと背景を逆方向に引く描写。

f:id:karipan:20210111164942g:plain

必要な情報を含ませつつ作品をシンボル的に示す、やはりオープニングはこうでないと。

 

そして再び本編。相変わらず丁寧な芝居付けで表されていく二人の距離感、その距離感の物差し&本作の特徴ともいえる「普段秘匿している二面性」の共有。まあこれもラブコメの鉄板といってしまえばそこまでなんですが、それを視覚的に表現した石浜真史氏のコンテ切りがとにかくすごい。

例えばそれは、宮村が「堀が仲良くしているクラスの女子を見かけた」旨を堀に報告するシーン。

f:id:karipan:20210111172124j:plain
f:id:karipan:20210111172144j:plain

f:id:karipan:20210111172210j:plain

窓ガラスに映る虚像に仮託された二面性から「虚像のみ」になるカット背景の白飛び、そしてイマジナリーライン*3の逸脱(左右反転)。窓ガラスによるフレーム内フレーム*4、というより窓ガラス越しに映したカットへの転調が印象的で、繊細な距離感の表れの中で、確実に堀の心情に「動き」が見えた瞬間が切り取られたカット運びに思わず息をのみました。

一連のイマジナリーライン越えの流れでも用いられていたフレーム内フレーム、ここで何となく、OPでひたすら強調されていた「四角形」への意味合いがより強固に根付いてくるわけですが、その後のカットでもやはりしきりにでてくる「四角形」に閉じ込められたような宮村のカット。

f:id:karipan:20210111172348j:plain

窓枠によるフレーム内フレーム。

自分じゃ釣り合わない、そういった自己肯定の低さから一歩を踏み出せずに籠る。こういった恋愛論もいささか記号的に処理されていくものの、やはりそれだけでは表せ切れない本作ならではの距離感は、気取らない自然体な芝居付けで補完されていく。この塩梅が非常に心地よい。

 

そうして視覚的に宮村のパーソナルスペースを演出したうえでのラスト、堀と宮村の会話シーン、ここの足の芝居がとても良い。

f:id:karipan:20210111171808j:plain

宮村の足

f:id:karipan:20210111171647g:plain

堀の足

自己肯定の弱さから後ずさる宮村。そして堀、一歩その場で踏み込むことによる間合いによる緊張もいいのですが、続けざまにカメラのフレーム外、即ち「宮村のテリトリー」へと歩みを進める。ここまで丁寧な芝居付けで視覚的な「自己紹介」を重ねたからこそできる、弱気と強気と対比を表しきった雄弁な演出、個々のパーソナリティを描く上でかなり意味を含ませたカット運び、つられて自然と感情が動かされました。

それとなく複雑化していくであろう人物の相関関係、四角形という平面的な概念から、立体的になっていくであろうことが示唆されたOP。個々の色づいた影は、どの方向へ伸びていくのか。既に多少シュールな展開もありますが、これから彼ら・彼女らがどう物語を紡いでいくのか、見届けたい気持ちにさせてくれた初回・OPでした。話数絵コンテ、石浜さんが積極的に参加してくれることを願う。

*1:前後のカットを重ねながら画面を切り替える手法。

*2:本来なら繋がらない複数のカットを、視覚的、比喩的な類似性によってつなぐこと。

*3:想定線と同義。二人の対話者をつなぐ仮想の線。本記事では、その線を跨ぐ(カメラを180度回転させた角度から撮る)ことについて触れている

*4:画面の中に、更にもう一つのフレーム(仕分け)で囲われていること

2020年秋アニメ―月の演出やレイアウト構成のモチーフ性

あけましておめでとうございます、カリーパンです。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

2020年秋アニメ、コロナ延期明けの影響もあってか、かなりたくさんの作品に触れることができとても楽しいクールでした。本記事では、前クールアニメの演出面を中心に、色々考えを巡らせる場になるかと思います。

 

まずは「トニカクカワイイ」。気恥ずかしさすら感じられる相思相愛な夫婦コメディ。原作の畑健二郎先生の奥さんに対する愛情、何個か用いられているであろう体験談からなるエピソードは、まさにライターの幸福感が感じられ、非常に見ていて心地の良い作品でした。

竹取物語」を彷彿とさせる絶妙なリアリティラインも本作の魅力でしたが、そういった雰囲気を引き出していた存在として、やはり「月」の描写に仮託されたモチーフ性は、無視できない点もあったように思います。例えば1話、事故を起こしたナサ君を引き上げる司のシーン。

f:id:karipan:20210102143743j:plain
f:id:karipan:20210102143809j:plain

司と月を映したカットは一見ナサ君視点の主観ショットのように思う、というより、主観ショットではあるのですが、どこかぬぐえない、月と人物描写の距離感に対する違和感。本来ナサ君視点ではもっと月が小さく見えるはずなのに、あえて遠くにある被写体を大きく映す、望遠レンズ*1的なレイアウト。アニメーションにおいて、キャラクターが月に手を伸ばすことで、そのキャラクターの到達目標・目的との距離感をフィルム的に表す、という演出は鉄板ですが、今作は視覚的にナサ君と司の間の距離を切り離すことで、どこかリアリティが欠如した、「(司が)掴めそうで掴めない存在」であることを印象付けるシーンに思いました。

しかしそれは決して二者間の断絶を表しているのではなく、元々博識な二人が他者とのダイアローグを通して互いを理解することで、「距離を縮める」作劇である、ということを端的に表していたように感じました。

f:id:karipan:20210102145225g:plain

だらかこそ1話終盤、こういった月へのPANアップ・PANダウンによるシームレスなカット繋ぎも、やはり「月」を介在させることで伝えたい二人だけの距離感があるんだろうな、という。立ち位置を始めとしたレイアウト構図、二人だけの空間を立体的に照らすライティングの塩梅。コンテの切り方や撮影処理に「トニカク」こだわりを感じた初回でした。だから自然と、ナサ君が追いかける物語から、司をエスコートする物語にシフトしていくような画作りも良かったです。

f:id:karipan:20210102145833j:plain
f:id:karipan:20210102145850j:plain
左が初回、右が最終話。立ち位置の転換が良い

作画が単調という旨のツイートをよく見かけましたが、むしろこういった拾いやすい線で描かれた、スッキリしたキャラクターデザインの造形は、芝居付けも見通しが良かったし、なにより原作の雰囲気がそのまま踏襲されていて、制作スタッフ様には感謝の言葉もないです。

 

キャラクターデザインといえば、もう一作ピンときたのが「憂国のモリアーティ」。現代の読み手の身に馴染みやすいよう、多少原作「シャーロック・ホームズ」からの脚色は見受けられました。

f:id:karipan:20210102150431j:plain

機関蒸気、煙草、霧。撮影処理による空気感が◎

しかし、19世紀後半当時の時代考証に基づいた差別描写・階級制度の描き方は素晴らしかったし、産業革命当時の雰囲気をを存分に演出した「淀んだ空気感」の撮影処理もこだわってた。

キャラクターデザインの話に戻りますが、「女性向けのキャラデザ」と言ってしまえばそこまでなんですが、意識して造形されたソリッドな頭身・顔立ちは、やはり作品の魅力を存分に引き出していたと思います。

f:id:karipan:20210102150940j:plain
f:id:karipan:20210102150954j:plain

例えば1話の、こういったカットとか。前半クールの中でウィリアムが煙草を吸ったシーンはここだけなんですが、背中を映すカットの余白、そこからのこの表情芝居。風による髪のなびきの描写もすごく自然な感じで最高にいいんですが、彼の中では背中の後ろで起こっている犯罪行為こそが日常になってるんだよなっていう。過去編をとばして、敢えてこの回を挿入した意図。彼の人間性を語る上では十分すぎるほど雄弁な挿話でした。

そして第三話、ここでまた印象的な「月」の描写が。

f:id:karipan:20210102151936g:plain

表情の影が緋色のライティングを帯びていく。

アルバートが一線を越えるシーン、緋色を基調としたフィルムに転換するのも特徴的ですが、前へ歩を進めるアルバートとリンクして照らされる表情へのライティングの浸食。「越えてはいけない何か」を跨いでしまったかのような。そして、またしても手前の被写体と背景の月の距離感に敢えて違和感を持たせる、望遠レンズ的なレイアウト。

f:id:karipan:20210102152341j:plain
f:id:karipan:20210102152301j:plain
「月」に対する距離の違和感が”直る”。

物語の狂気性・異質さを強調するような画作り、そして物語が次の場面に移ると、通常のレイアウトに”戻る”。読み手を引き付ける物語は起伏の作り方が巧みで、盛り上がるシーンの合間に「余白」(読み手が状況・感情を整理する間)が意識してつくられていることが多いですが、こういった意識的なフィルムの転換からもそういったメリハリの良さが感じられ、より感情移入できた場面でした。

月を映すカメラの遠近感の工夫といえば、配信&劇場アニメ「BURN THE WITCH」も印象的でした。簡単に表裏がひっくり変える世界、「ドラゴン」という異形が中心となって、日常性を堅持する既存社会の崩壊を描く物語でした。戦闘シーンでは特撮的な撮り方を思わせるロングショットなども印象的でしたが、特に「シンデレラ」と称されたドラゴンが君臨するシーン。

f:id:karipan:20210102152916j:plain
f:id:karipan:20210102153213j:plain

f:id:karipan:20210102154544g:plain

足を食い込ませた際のカメラのブレ、羽で時計を覆い隠すというような巨大感を表す演出も最高にいいのですが、ここでPANアップで映されるシンデレラと「月」の共演は、モチーフ性・虚構性を際立たせる描写としては十分すぎるほどのインパクトある描写。

川野「怪獣映画というか、なるべく望遠でカメラを置いたり、カメラ位置を下げたりして、巨大感を出す定番の表現を入れています。

月刊ニュータイプ11月号のインタビューにて川野達朗監督がこうおっしゃっていましたが、特にそういった視覚的な工夫が見られる場面だったように思います。

f:id:karipan:20210102152902j:plain

そしてこの後、即座にニニーとのえるの肩越しに捉えた広角レイアウトにカット転換するのも「なるほどな」と唸らされるのですが、ここで一旦「画面の中で一番注目されている被写体」から距離をおき、それ(シンデレラ)と対峙する人間サイドの主観的な視点に戻すことで、「ドラゴンの存在感を強調する→それと対峙している側の緊張感」を連続的に演出することに成功しているカット繋ぎ。考え抜かれた「異形の存在感」の描き方は、思わず声を上げてしまいそうになるほど圧巻でした*2

 

そして最後に、「魔女の旅々」。

f:id:karipan:20210102155427j:plain
f:id:karipan:20210102155448j:plain

f:id:karipan:20210102155557g:plain

目のハイライト回転。撮影に凝ったアニメ

例えば2話なんかでは、窓から射す月光の逆光により照らされるイレイナ、そして対照的に、芝居ごとに目のハイライトや表情の光量が変化するサヤ。そして曇りが晴れて満ちる月の描写は、まさに二人の関係性を表しているようで非常に叙情的でした。しかしここで注目したいのが、そういった演出が示す意図や意味合いというよりも、本作が「小説原作」であること。例えば上で挙げた「トニカクカワイイ」と「BURN THE WITCH」なんかは一部原作読了済みですが、やはり漫画であるため、先に挙げたモチーフ性を象徴する「月」の描写がある程度画としてなされているからこそ、映像にもアダプテーションしやすいだろうと思う。「魔女の旅々」は原作未読なのが歯がゆいですが、もしそういった「月」の情景描写がある程度地の文で書かれていたとしても、やはりそこは地の文を映像として抽出するアニメスタッフの器量に委ねられるわけですが、こういった「小説→映像化にあたってのレイアウト的な工夫」を想像するのが非常に楽しい作品でした。

f:id:karipan:20210102160159j:plain
f:id:karipan:20210102160223j:plain
左は2話、右は5話より。

例えばそれは、作品における視覚的な方向性。アバンにてイレイナがほうきで飛んでいる描写から始まる挿話は、決まって上手から下手(右から左)へと飛んでいく。まるでそれが旅路の順方向、「後戻りできない旅」を象徴するかのように。それを裏付けるかのように、第10話「二人の師匠」では、旅路を順方向に飛んでいたフランとシーラが、弟子たちの危機を察知して、旅路を下手から上手へ逆行する(引き返す)描写が印象的でしたが、こういった意識的な方向性に仮託した意図は無視できないと思います。

f:id:karipan:20210102160600j:plain

そして最終話。これまでの挿話で喜劇や悲劇を交互に描いてきたり、そして最終回では選択の違いによって分岐した様々なイレイナのアイデンティティを描いたりと、とにかく「色んな世界観・イレイナを描きたい」という筆者のエゴが見え隠れしていてとても楽しく鑑賞しておりました。魔女の旅「々」とはそういうことだったのかと。そういった世界観に対する幅の持たせ方が、序盤の「魔女」に対するリアリティラインが掴みづらい要因となっていましたが*3、最終回で多元的な解釈を演出するためのささやかな弊害だったのだろう。そして最終回のラストシーン。

f:id:karipan:20210102160858j:plain

後戻りのできない旅、選択の重要性を今一度強調するように、再びイレイナが順方向へ飛んでいく描写にとにかく心を動かされたのですが、後悔の念故に逆行していた「粗暴なイレイナ」と和解をしてからこの描写を挟んだ点も、「彼女が彼女であるため」の旅路なんだよなっていう。

 

こういった地の文では表現しきれない視覚的な訴えを目の当たりにすると、改めて「アニメってすごい」と思わされるわけです。この文化を好きになれてよかったとしみじみ思う、今年もたくさん「アニメ」の魅力を体感できる1年でありますように。

 

 

*1:被写体とカメラの距離が離れており、その距離感のままズームして撮影されたカット。こうすることで被写体と背景の物の距離感が平面的になり、キャラクターと物の対比が分かりやすくなる。

*2:特に自分は劇場で見たから、という相乗効果も込みかもしれない

*3:「魔女の旅々」作中において魔女の地位の分かりづらさ・魔法の優位性等